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「愛してる」  息継ぎの合間に、微かに嗚咽が混ざる。 「愛してるよ……」 「――っ」  なぜかズキリと傷んだ心臓が鬱陶しくて、ラズワードはノワールの唇を割るように舌を伸ばす。 「……ん」  抵抗の薄い唇は、すんなりとラズワードの侵入を許した。熱いその中で、彼の舌を絡めとる。その瞬間に漏れたノワールの声に何かが壊れてしまったのかもしれない。 「……、まだ、足りないでしょう?」  ラズワードはノワールを押し倒して、そのままノワールの口内を引っ掻き回すように舌で犯した。それに応えるように絡められる彼の舌に、麻薬でも用いたかのように脳が痺れてゆく。 「もっと「俺」を求めて――もっと……愛して」  唇を離すと同時に目を開けた。ラズワードがノワールの伏せられたままのまぶたを見つめていれば、彼も静かにまぶたを開く。至近距離でみたその黒い瞳。闇のようだ、そう思っていた瞳は濡れて黒水晶のように美しい。 「ずっと、ノワール様は「俺」が欲しかった……」  ラズワードの手がするりとノワールのシャツのボタンに伸びる。三つ目まで開けて、そこから手を滑り込ませ、白い肌を撫でた。 「「俺」を求めていた、「俺」を愛していた……!!」  自分で言った言葉になぜか胸が苦しくなっていく。「俺」はノワールにとっての「死」であって「俺自身」ではないのだと、それを意識してしまうと。  それでもラズワードは胸の痛みを無視してノワールに迫る。ラズワードの頬を伝う涙がノワールの顔に落ちる。 「俺も、貴方を愛してる――」  ハッと見開かれたノワールの目を見ることを拒むように、ラズワードはもう一度口付ける。  ノワールが何かを言おうとしているが、ラズワードはそれが聞きたくなくて舌を奥まで差し込んだ。抵抗しようとしたノワールの動きを止めようと、シャツの中に差し入れた手を動かした。脇腹をなぞるようにゆっくり撫でると、ノワールが微かに身動ぎをした。 「……――」  その細い手首に痕がつくくらいにラズワードはノワールの手首を握り締め、机に押さえつけた。その肌を隠す邪魔な布を取り除こうとシャツのボタンを全て外してやった。  シャツがはらりと開くと、なんとなくいつもの彼の香りが鼻を掠める。なぜかその匂いに胸がぎゅっと締め付けられる。ずき、と心臓を引っ掻かれる。  溢れ出る苦しさが嗚咽となってこみ上げてくる。だから、狂いそうな激情を華奢な身体にぶつけるように優しく手のひらを肌の上で滑らせた。 「……っ、ん」  涙を堪える自分の声。触れる度にほんの微かに隙間から漏れるノワールの声。吐息が混ざり合う。苦しみと快楽と哀しみの喘ぎがせめぎ合う。  心臓の引っ掻き傷に涙が滲みた。  痛い、痛い、なぜ痛い? ――「俺」は貴方を愛してる。貴方の愛した「俺」は貴方を愛してる。「死」は貴方の願いを祝福しているのに。 「あ、……う」  「貴方を愛してる」。これは貴方のための言葉。貴方が俺に映し見た「死」が、貴方を受け入れているのだと、そう伝えたかった。俺が貴方を救うのだと、そう信じて欲しかった。それだけの言葉。他意はない、あるはずがない。  イタイ、イタイ。 「は、……」 「――……っ」  唇を離し、ノワールを見下ろした。虚ろげな瞳に見上げられた瞬間、ぶちりと嫌な音が頭の中で響く。血が逆流している、内蔵が茹だっている。体中の熱が全てを溶かす。 「なんだよ、その目……」 「……ラズ、ワード……」 「やめろ、まだ俺を見てるのか……? 違う、俺は俺じゃない、おまえの愛するおまえの「死」だ! 吐いて……もっと熱くておかしくなるような愛の言葉を吐いて……! 「俺」のなかの俺を壊してくれ……おまえが愛している「俺」だけを求める言葉の熱で……! 俺を壊せ、殺せ! この痛みをどうにかして、ください……!!」  もう、わけがわからない。  痛みの正体は一体なに?  愚か者、愚か者。この痛みに狂わされるな。  痛みを感じるのならば、狂ってしまうのならば。俺は生きている。この人の求める「俺」にはなれない。 「――ぐっ……」  剥き出しになった鎖骨に噛み付くと、ノワールはびく、と大きく身体を揺らした。ギリ、と強く力を込めていくと、微かに彼は仰け反って、その白い喉が強調されるかのようだった。そこも噛み付きたい衝動に駆られたが、まだここが足りていない。 「……あッ――」  口の中に血の味が広がる。その味にゾクゾクと体に妙なざわめきが響いた。  口を離せば歯型に血が滲んでいる。じわ、とでてくる血を舐めとって、口を拭う。その時手で自分の唇に触れて、初めて今自分が嗤っていたことに気付いた。  なんでだよ、なんで俺は嗤っている。おかしくなったのか、狂ったのか。  なにがそんなに俺を駆り立てる。 「殺せ……俺を殺せよ……!! ノワール、早く……!!」  鎖骨の皮膚を食いちぎられた痛みに、ノワールの皮膚からは汗が噴き出している。その汗は、首筋をつたっておちてゆく。汗の跡が光を受け、ひかっている。首筋が強調される。 「――っ、……ラズワード……」  ノワールが手を掴んでくる。そして、自らの首に添える。 「……愛してる」  その細い指で、促される。 「愛してる」  誘われるまま、手に力を込める。   「この世の全ての何よりも、愛してる」  細い肉の感触が手のひら全体に伝わってくる。 「俺を愛してくれ」  こく、と喉仏の動きが生々しい。 「このまま、イカせてくれ」  みし、みし……と骨の軋む感触を感じる。彼の瞬いた瞳から涙が零れ落ちる。 「……助けて、くれ」  湧き上がる情動の正体を。胸に巣食う焦燥の影を。その瞳を見た瞬間に、知る。    貴方への劣情。  俺が、俺自身が、貴方を求めて―― 「――っ」 ――なんだ、いまのは。 「……なんだよ、うるさい。……黙れ! 俺じゃない、ちがう、俺が求めているんじゃない……!!」 「――あ……ッ」 「……、ほら……見えんだろ……あんたの愛してるもんが……!! 「死」が!! 目の前に、いるだろう!? ほら、イけよ!! あんたが何よりも愛した「死」に抱かれて、イけよ!! イけ!! 死ね!! ノワール!!」  カッと目の前が白んだ。一瞬頭に浮かんだモノを慌ててかき消した。  何に自分は嗤っているのだろう。なんでこんなにも胸が痛いのだろう。 「なあ、今あんたには俺がどう見えてんだ!? 俺の名前わかるのか、俺の顔わかるのか!? ――わっかんないだろうなぁ!? 「俺」は俺じゃないもんな、おまえには!!」 「……っ、……」 ――なにを言っているんだ、俺は何を……!  ぐらりと視界が歪む。自分の口からでた言葉に、衝撃を受けた。  自分自身がわからない。自分が目の前の男に何を望んでいるのかわからない。ただ、彼に幸せになってほしいだけ、そのために自分がこの人の愛するモノの身代わりになろうとしたのに。それに抵抗を感じているなんて。  どうして苦しいんだろう。どうしてこんなにも胸が痛むのだろう。

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