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 ふと落とした視線の先に、その男がいる。濡れた瞳で見つめてくる彼に、やはりチリチリと心が焦がれてゆく。この感情の名前は、一体なに。人の幸福を望むことは、こんなに苦しいことなのだろうか。  その瞳に、自分の姿が映っている。今、この人の視覚は働いているだろうか。それならば、俺の姿をちゃんと捉えているだろうか。いいや、見えていたところでこの人は俺のことなんて、見ていない……。 「――……」 「――!!」  ノワールの体から力が抜けていく。ノワールが目を閉じる瞬間、思わず手を離してしまった。  そして、解放され咳き込むノワールを衝動的に掻き抱いた。 「――げほ、は、っあ、ラズ、ワード……?」 「……は、ノワール様……ノワール、様……」  涙腺が壊れてしまったかのように、ボロボロと涙があふれてきた。ぜえぜえと荒い息を吐くノワールを自分の胸に抱きとめるように、ラズワードは腕に力を込める。 ――ああ、嗤っている、また、俺は嗤っている。 「は、ハハ……大丈夫、まだ終わりじゃない、まだ足りない、俺も、足りてない……」  無様な俺を嗤っているのだろう。自分の感情に惑わされ狂わされ、藻掻き苦しみ喘ぎ、果てにはボロ雑巾のような無様な未来が見えてきて、そして嗤っているのだろう。  ぶつぶつと口からでてくる言葉は、自分に暗示をかけるかのようだ。そんな言葉がなければ動けない俺は、なんて無様。嗤うしかない。そういうこと。 「ほら、ノワール様……もっと、もっと、「俺」を求めてくれ……堪らない絶頂を一緒に、感じたいだろ……「俺」だけだよ、あんたを抱けるのは……あんたが望むものは……!!」  何かの叫びが聞こえてくる。耳を劈くような絶叫が、心臓に穴を穿つ。俺の叫び。心の泣き声。うるさくて喧しくて、うざったい。  黙れ。こんな惨めな叫びを聞いたら、この人はどう思う。 「……は、……けほ、……ラズワード、おまえ、泣いてる……」 「……は、またそれかよ。俺のこと心配なんてしていいのか、おまえは」 「……ラズ、」  聞かれてしまう。それを恐れた。  慟哭を聞かれないように、ノワールの耳を塞いでやる。そして、「俺」の声だけが聞こえるように、思いっきり詰め寄って叫んでやった。 「おまえは、人に情けなんてかけちゃだめなんだよ……!! おまえはなんだ、悪なんだろう!? 幾人の生を虐げてきたんだろう!? 今更……誰かに優しくしていいとでも思っているのか!!」 「……っ」 「お前のせいでどれだけの人が苦しんだ!! お前が生まれた結果、どれだけの人が死んでいった!! お前は人の屍の上で生きている、誰かを犠牲にして生きている、人の命を啜って生きている!! もういいだろう、お前は生きていてはいけない、死ぬべきなんだよ!!」 「――やめてくれ、わかってる……わかっているから、もう……」 「わかってんなら聞けよ!! その頭に刻み込めよ!! お前の罪の重さ、お前のせいで死んだ人の叫びを!! もっと望め、自分の死を……!! お前の生はただ世界の闇でしかない!! 許されない!! 死ね、ノワール、お前は死ね!! 死ね――死ね!!」 「――っ」  ノワールは泣いていた。  俺も、泣いていた。  馬鹿みたいに、泣いていた。 「……、」 「――は、ァ、はぁッ……」  あまりに惨たらしい言葉に傷ついて、血まみれの心の涙が、ボロボロと、目から溢れ出る。唇からは呪詛のような残酷な言葉がツラツラとでてくるのに、なぜか体は俺の心に純情だ。涙を流すノワールを抱き寄せて、そっと震える肩を包み込む。それでも、でてくる言葉は彼の「幸せ」を望む言葉。 「ノワール様、貴方は迷ってはいけない」 「……うん、知ってる」 「もう、未練はないでしょう」 「……うん、ないよ。ありがとう」  泣きながらもノワールは笑っていた。刃のような言葉にズタズタに傷ついて、それでもその傷は彼にとっての快楽となるのだろう。「幸せ」になるのだろう。言っているだけで苦しかった、でも、そんな俺の想いがバレてしまったのなら、またこの人の「幸せ」の妨げになってしまう。  この人に死んでほしいわけじゃない。苦しんで欲しくないだけ。「生」が貴方にとって苦であるというのなら、それならば貴方に「生」を捨てて欲しい。死んでほしい。  そう、自分のなかで想いははっきりとしているのに、どうして俺は泣く。自分で言った言葉に傷ついている。まるでこの人に「生きて」ほしいと思っているみたいじゃないか。この人の「不幸」を望んでいるみたいじゃないか。  そんなふざけた望みを抱えていてはいけない。この人の「幸せ」を望むんだろう?  迷いを捨てなければいけないのは、俺の方。 「ラズワード……俺はずっと苦しかった。目に見える世界全てが悪夢だった。やっと、俺は目を覚ませるんだね。この世界から消えることができるんだ」 「……そうです」 「ごめん、ラズワード。……俺のものになってくれ。欲しいものが目前にありながら手放すことができるほど、俺は大人じゃないんだ」  ノワールが背に腕をまわす。そしてラズワードの胸に頬を寄せて、そっと囁いた。 「……俺を殺してくれ」 「……はい、「俺」が貴方を殺します」 「俺だけをみて」 「はい、「俺」は貴方のことだけを見ています」 「俺を愛して」 「はい、「俺」は貴方を、愛しています」 「俺を……助けて」 「……はい、俺が、必ず貴方を救います」  胸に消えゆく貴方の声。その声は、魂まで届いたか。  忘れない。その声は「俺」を通して俺にも届いている。  きっと、きっと……その誓いは守ってみせる。  俺が、貴方を救ってみせる。 ――この命が尽きるまで。たとえ、世界が変わったとしても。俺と貴方が、違う誰かを愛したとしても。

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