84 / 343
6(3)
ふと落とした視線の先に、その男がいる。濡れた瞳で見つめてくる彼に、やはりチリチリと心が焦がれてゆく。この感情の名前は、一体なに。人の幸福を望むことは、こんなに苦しいことなのだろうか。
その瞳に、自分の姿が映っている。今、この人の視覚は働いているだろうか。それならば、俺の姿をちゃんと捉えているだろうか。いいや、見えていたところでこの人は俺のことなんて、見ていない……。
「――……」
「――!!」
ノワールの体から力が抜けていく。ノワールが目を閉じる瞬間、思わず手を離してしまった。
そして、解放され咳き込むノワールを衝動的に掻き抱いた。
「――げほ、は、っあ、ラズ、ワード……?」
「……は、ノワール様……ノワール、様……」
涙腺が壊れてしまったかのように、ボロボロと涙があふれてきた。ぜえぜえと荒い息を吐くノワールを自分の胸に抱きとめるように、ラズワードは腕に力を込める。
――ああ、嗤っている、また、俺は嗤っている。
「は、ハハ……大丈夫、まだ終わりじゃない、まだ足りない、俺も、足りてない……」
無様な俺を嗤っているのだろう。自分の感情に惑わされ狂わされ、藻掻き苦しみ喘ぎ、果てにはボロ雑巾のような無様な未来が見えてきて、そして嗤っているのだろう。
ぶつぶつと口からでてくる言葉は、自分に暗示をかけるかのようだ。そんな言葉がなければ動けない俺は、なんて無様。嗤うしかない。そういうこと。
「ほら、ノワール様……もっと、もっと、「俺」を求めてくれ……堪らない絶頂を一緒に、感じたいだろ……「俺」だけだよ、あんたを抱けるのは……あんたが望むものは……!!」
何かの叫びが聞こえてくる。耳を劈くような絶叫が、心臓に穴を穿つ。俺の叫び。心の泣き声。うるさくて喧しくて、うざったい。
黙れ。こんな惨めな叫びを聞いたら、この人はどう思う。
「……は、……けほ、……ラズワード、おまえ、泣いてる……」
「……は、またそれかよ。俺のこと心配なんてしていいのか、おまえは」
「……ラズ、」
聞かれてしまう。それを恐れた。
慟哭を聞かれないように、ノワールの耳を塞いでやる。そして、「俺」の声だけが聞こえるように、思いっきり詰め寄って叫んでやった。
「おまえは、人に情けなんてかけちゃだめなんだよ……!! おまえはなんだ、悪なんだろう!? 幾人の生を虐げてきたんだろう!? 今更……誰かに優しくしていいとでも思っているのか!!」
「……っ」
「お前のせいでどれだけの人が苦しんだ!! お前が生まれた結果、どれだけの人が死んでいった!! お前は人の屍の上で生きている、誰かを犠牲にして生きている、人の命を啜って生きている!! もういいだろう、お前は生きていてはいけない、死ぬべきなんだよ!!」
「――やめてくれ、わかってる……わかっているから、もう……」
「わかってんなら聞けよ!! その頭に刻み込めよ!! お前の罪の重さ、お前のせいで死んだ人の叫びを!! もっと望め、自分の死を……!! お前の生はただ世界の闇でしかない!! 許されない!! 死ね、ノワール、お前は死ね!! 死ね――死ね!!」
「――っ」
ノワールは泣いていた。
俺も、泣いていた。
馬鹿みたいに、泣いていた。
「……、」
「――は、ァ、はぁッ……」
あまりに惨たらしい言葉に傷ついて、血まみれの心の涙が、ボロボロと、目から溢れ出る。唇からは呪詛のような残酷な言葉がツラツラとでてくるのに、なぜか体は俺の心に純情だ。涙を流すノワールを抱き寄せて、そっと震える肩を包み込む。それでも、でてくる言葉は彼の「幸せ」を望む言葉。
「ノワール様、貴方は迷ってはいけない」
「……うん、知ってる」
「もう、未練はないでしょう」
「……うん、ないよ。ありがとう」
泣きながらもノワールは笑っていた。刃のような言葉にズタズタに傷ついて、それでもその傷は彼にとっての快楽となるのだろう。「幸せ」になるのだろう。言っているだけで苦しかった、でも、そんな俺の想いがバレてしまったのなら、またこの人の「幸せ」の妨げになってしまう。
この人に死んでほしいわけじゃない。苦しんで欲しくないだけ。「生」が貴方にとって苦であるというのなら、それならば貴方に「生」を捨てて欲しい。死んでほしい。
そう、自分のなかで想いははっきりとしているのに、どうして俺は泣く。自分で言った言葉に傷ついている。まるでこの人に「生きて」ほしいと思っているみたいじゃないか。この人の「不幸」を望んでいるみたいじゃないか。
そんなふざけた望みを抱えていてはいけない。この人の「幸せ」を望むんだろう?
迷いを捨てなければいけないのは、俺の方。
「ラズワード……俺はずっと苦しかった。目に見える世界全てが悪夢だった。やっと、俺は目を覚ませるんだね。この世界から消えることができるんだ」
「……そうです」
「ごめん、ラズワード。……俺のものになってくれ。欲しいものが目前にありながら手放すことができるほど、俺は大人じゃないんだ」
ノワールが背に腕をまわす。そしてラズワードの胸に頬を寄せて、そっと囁いた。
「……俺を殺してくれ」
「……はい、「俺」が貴方を殺します」
「俺だけをみて」
「はい、「俺」は貴方のことだけを見ています」
「俺を愛して」
「はい、「俺」は貴方を、愛しています」
「俺を……助けて」
「……はい、俺が、必ず貴方を救います」
胸に消えゆく貴方の声。その声は、魂まで届いたか。
忘れない。その声は「俺」を通して俺にも届いている。
きっと、きっと……その誓いは守ってみせる。
俺が、貴方を救ってみせる。
――この命が尽きるまで。たとえ、世界が変わったとしても。俺と貴方が、違う誰かを愛したとしても。
ともだちにシェアしよう!