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まだ距離も詰まっていないというのに彼女は声をかけてきた。どこか覚束無い足取りで歩き、長い髪を揺らし、彼女は歩み寄ってくる。完全にラズワードに狙いを定めたようだ。周囲の人々と比べて服装も綺麗なうえに、明らかによそ者であったということもあるだろう。
自分からいかないですんだのはいいが、どうやって話を進めよう、そうラズワードが考えた時である。
「……?」
ラズワードは目を凝らす。悪いというわけではないが特別良いというわけではない視力ではまだ彼女の顔ははっきりとは見えない。しかし、その体つき、纏う雰囲気。どこか、既視感を感じたのである。
彼女はそんなこと全く思っていないのだろう、構わず近づいてくる。
しかし、ラズワードが彼女の顔をはっきりと目で捉えた瞬間。彼女もほぼ同じタイミングでラズワードをはっきりと認識し。お互いに、ピタリと動きを止めた。
「――……っ」
先に動いたのは彼女であった。彼女は目を見開き、一気に青ざめたかと思うと、すぐにラズワードに背を向けて走り出したのだ。
「――待っ……」
ラズワードは弾かれたように走り出す。驚きと困惑で頭が真っ白になりかけたが、本能で彼女を追いかけた。元々それなりの距離があったため、すぐには追いつかない。それでもラズワードは必死に走り、そして、叫んだ。
「待って、――姉さん!」
ラズワードの本能を揺すったもの。それは――あのときルージュに連れて行かれてから一度も、訳百年もの間会っていなかった、姉・アザレア。一瞬だけ見えたその顔は、紛れもなく、彼女であったのだ。
高いヒールの靴を履き、以前よりもやせ細った脚。ラズワードがすぐに追いつくことは難しいことではなかった。腕を伸ばし、ラズワードはアザレアの腕を掴む。そのあまりの細さにぎょっとしたが、動揺を隠しながらも彼女に問う。
「……姉さん、ですよね。俺のこと、わかりますか……?」
「……っ」
彼女――アザレアは、恐る恐るといった風に振り返った。瞳を震わせ、怯えるように身を縮こめる。離してほしいとでもいうようにラズワードから顔を背け、そしてか細い声で言う。
「……見ないで……」
「え?」
「見ないで……ラズワード……今の、私を、見ないで……」
そのあまりにも悲痛に満ちた声にラズワードは思わず手の力を緩めた。すると、アザレアはガクンと膝から地面に崩れ落ちて手で顔を覆う。肩が震えているのをみて、ラズワードは彼女が泣いているのだと気付く。狼狽しながらもラズワードはアザレアに合わせてしゃがみこみ、そっと肩に触れ顔を覗き込むと、アザレアはびくびくとしながら手をどけて、その濡れた瞳でラズワードをちらりと見上げた。
「……幻滅、したでしょ……ラズワード……私が、こんなに薄汚れたことやっているなんて……」
「……姉さん、もしかしてあの時神族に言われた新しい仕事って……」
「……そう……! ここで体を売る仕事……! ずっと……ずっと、私、ここで……」
アザレアは絞り出すような声でそう言うと、ラズワードの手を払いのける。そして、地面に手をつき、くつくつと嗤いだした。
「笑える……ほんとに、……はは、だって、……あのとき剣を握っていたこの手は……! 今、男共を慰めて……! ねえ、このあの方の名前を呼んだ口で、ヤラしい言葉を吐いて!! 大切な人を守るために与えられたこの肉体はねえ、きっと、今、臭うでしょ! なんの臭い、ほら、薄汚い男たちの精液の……」
「姉さん、」
「ふ、はは、ねえ聞いてラズワード。私、堕ろしちゃった」
「……え?」
ばっと顔をあげ、アザレアはラズワードを見つめる。その瞳孔は開き、視線は定まらず、あまりにも昔と違うその瞳にラズワードはぎょっとする。
「私ね、……エリス様の子供できていたの。……はは、堕ろしちゃった。っていうか流産した。毎日毎日ヤッてばかり。死んじゃった、私の赤ちゃん」
「……!?」
ひく、と唇の端を引きつらせながらアザレアは嗤う。そして、突然唸り声をあげたかと思うとラズワードの胸元にしがみつき、泣き始める。その変貌ぶり。昔、憧れて、焦がれて、愛した姉の堕落っぷりにラズワードは激しく動揺した。頭が真っ白になって、何も言葉が浮かんでこない。へたりと足の力が抜けて、尻餅をついてしまう。
幻滅したか。――正直のところ、はっきりとは否定できなかった。アザレアがとてつもなく酷い目にあっていたことは理解できたし、それによって少し性格が変わってしまうことも納得できる。しかし、彼女はラズワードにとっての光だった。目指したものだった。それが、こう変わってしまってショックを受けるのは仕方のないことだろう。
それでも彼女は昔、世界の底辺を生きたラズワードを愛してくれた人。拒絶することなどできるはずもなかった。むしろ、救わなくては、そう思った。ラズワードは未だ心の整理がつかないものの、ゆっくりとそのやせ細った背に腕を回し、アザレアを抱きしめる。
「姉さん……逃げよう。アルビオンの外に……」
「……無理に決まってる。みて、この胸元にある刺青。これがある人間はね、売女の証なの。これがある人間が街の外にでようとすれば、憲兵に殺される。……憲兵は強い、レベル4の悪魔だって倒せるくらい……」
「……大丈夫だよ。俺がついていれば。憲兵程度の人間が何人いようがそこを掻い潜る自身はある」
「……まさか、」
アザレアがはっと笑う。そして疑うような眼差しをラズワードに向け、吐き捨てるように言った。
「簡単に、言うのね。……貴方を信じることができると思う? 貴方は体をつかって媚を売ることしかできなかったやっすい人間じゃない。他になにも手段を持っていなかったのよ、そんな貴方が……どうやって私を連れてここから逃げるって? 無理、貴方に私を救うことなんて、絶対に……!」
「――黙れ」
ラズワードはぐい、とアザレアを引き寄せる。アザレアを包み込むように抱きしめ、息を荒げる彼女の背を優しく撫でる。
「俺はもう、姉さんの知っている俺じゃない。戦うための力をもっている、大切な人を救いたいって意思がある。……後ろばかり見ないで、前を見ろ、今貴女の前にいるのは俺だ。自分の未来をこんなところで捨てるなよ、……どうせ捨てるんなら、俺に全部委ねて。……俺を信じて!」
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