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「……出てこい、聖獣」
ノワールに向かって、バートラムは冷たい声で言う。そうすると、ノワールの体を取り巻くように風の渦が出現し、その中心からノワールの契約獣、グリフォンが姿を現した。
「本当は自分でやらせるつもりだったんだがな……この通り気を失ってしまったようだ。ノワールに治癒魔術をかけてやってくれないか」
「……貴様……ノワールの代わりに私がおまえを殺してやってもいいんだぞ。私はノワールと違っておまえの指図は受けないからな」
抑揚のない声で、グリフォンは言う。声色こそは冷静だが、その瞳には確かな殺意が宿り、そして浴室全体がグリフォンの騒ぐ魔力のせいでビリビリと揺れていた。しかし、バートラムは動揺をみせない。相当ご立腹のようだ、と笑ってみせると立ち上がり、吐き捨てるように言う。
「やりたいならやればいいさ……ただしその時、ノワールはどう思うだろうな。はは……感情をノワールと共有しているなら……知っているだろう? ノワールが私に抱く感情くらい」
「……貴様が……おまえがやったことだろうが……!! おまえがノワールにそれを植えつけたんだろう!? おまえのせいで……こいつがどれほど苦しんでいると思っているんだ!!」
「はっ……ああ、そのとおり、ノワールは私の望む完璧な作品になってくれた。こいつがどんな想いを抱いているかなんて、私には関係ない。ただ、私の望むように行動してくれる……私はそれでいいんだ。まだ少し躾は足りていないようだがな」
「……ッ、あまりにも過ぎたことをしたら……ノワールの意思に関係なくおまえを殺してやるぞ。ノワールがおまえに抱いている感情など幻想にすぎない、おまえが死ねばそれもいずれ消えるだろうさ」
「……ふ、どうかな」
バートラムはグリフォンに背を向け、浴室を出てゆく。
「ノワールは幼い頃から私に調教されてきたんだ。骨の髄まで、その細胞の一つ一つまで、私の色に染まっている。たとえこの先ノワールが誰かを愛したとしても、どんなことが起こったとしても……私のことを忘れることなどできないんだよ」
靴を鳴らしながら消えてゆくバートラムを、グリフォンはその視線で射殺せるほどに、強く、睨みつけていた。燃え上がる殺意をどう処理すれば良いのかわからない。ここまでグリフォンがバートラムに憎悪を燃やしているのは、もちろん彼がノワールを酷く侮辱するからである。ノワールを蝕む彼のことを、許せなかった。
グリフォンがノワールと契約したのは、もうグリフォン自身の記憶にもないくらいに昔のことだ。ノワールが幼い頃から、ずっと側にいた。今までの「ノワール」の中で、彼は唯一グリフォンが心を許した人だ。特別な、存在だった。
「……おまえは、莫迦だ……」
治癒魔術をかけてやると、いくらかノワールの顔色はマシになった。それでも意識が戻ることはなく、ノワールは目を閉じたまま。ぐっしょりと自らの血と冷たい水で濡れたシャツが張り付いた体は、おそらくローブを羽織った姿しか知らない者からすれば、恐ろしく細く映るだろう。
グリフォンは、そっとノワールに覆いかぶさった。触れてみればその肌は予想以上に冷たく、放っておけば本当に死んでしまったのではないかと思うと、ゾッとした。抱きしめるようにしながら、自分が人型だったらもっと良かっただろうと、柄にもないことを思う。グリフォンは何度か「人の姿だったらよかったのに、」と思ったことがあるが、それはノワールと触れ合ったときのみだった。グリフォンは非常に誇り高い聖獣であり、自分の存在全てにプライドをもっているからだ。人間に憧れるなど、自分を否定するようなこと普通は思うはずがない。
「……グリ、フォン」
「……ノワール……! 大丈夫か!?」
小さく自分の中で身じろいだノワールに、グリフォンは過剰なくらいに反応した。命が尽きていないことくらいはわかっていたが、実際にこうして意識を取り戻した様子をみて、酷く安心したのだ。
「……グリフォン……ひとつ、頼みがあるんだけど」
「どうした……まずはその体を……」
「俺のこと、手酷く抱いてよ」
「ハァ!?」
かすれるような声で言われたそれに、グリフォンは酷く動揺した。思わずガバッと起き上がる。
「お、おまえ何を分けの分からないことを言っている! だっ、大体種族が違うだろう子供なんて産めないぞ!」
「子供のことじゃなくて……ただ俺はおまえに抱いて欲しいって言ってるの」
「せ、性別が……! 私は知ってると思うが雄だぞ!」
「大丈夫……男でも抱かれることはできるから」
「ばっ……ふ、ふざけるな、かか体から始まる関係なんてそんなふふふ不純なことわっ私は」
「グリフォン」
ノワールがずるりと立ち上がる。目を見張り、息を詰め、グリフォンは黙ってその様子を見つめていた。ここで何か言葉を発したりでもすれば、彼を動かす糸がぷつりと切れてぱたりと呆気無く彼が死んでしまうのではないかと、そんな意味の分からない妄想に駆られた。
それほどに、今のノワールの様子は危うかった。
「……あの人はさ……苦痛で苦痛を上書きできるって言ったけど」
「――ッ!?」
ノワールが壁に取り付けてあった鏡を叩き割る。鏡の割れる音が、嫌に浴室に響いた。
「痛みで何かを忘れられるなら……どれだけ楽なんだろうね」
割れた鏡の破片をノワールが掴む。そこからは、グリフォンの目にはなぜかスローモーションのように映った。ライトに照らされきらきらと反射する破片がノワールの手のひらを傷つける。手からは血が伝い、白い肌を鮮やかに染めてゆく。赤く染まった手は、そのまま唇に。そして、鏡の破片は、ノワールの口の中に消えていった。
「……ッ、ば、馬鹿者……! ノワール、何を……」
「あッ……、ぅ、」
なぜ、今自分は早い段階でとめられなかったのか、グリフォンは自分がわからなくなった。ただ、その常軌を逸した行動に魅せられていたのは間違いなかった。
「はッ、あ……、ぅ、あ」
「……、」
破片は喉に突き刺さり、咽(むせ)て咳をすればさらに傷を深めてゆく。ノワールはずるずるとしゃがみこんで、何度も何度も枯れた咳を繰り返し、口から血を吐いた。その咳の中に、僅か泣き声が、混じっている。
嫌いで、嫌いで、憎くて、憎くて、殺したくて仕方がないのに。それなのに、たった一つ、小さな小さな想いだけが、ノワールを動かさない。愚かで、馬鹿馬鹿しくて、惨めなその想いが。
「……ノワール、おまえは本当に莫迦だな」
――あの人に、愛されたい。
華奢な、弱々しい背中をみて、グリフォンは思う。もしも、自分に人の腕があったなら。彼をただ優しく、抱きしめていたのだろうと。
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