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 ――ヴ、と空気が揺れる。鼓膜が破れるほどにすさまじい勢いで震えた空気に、ラズワードは目を眇めた。視界に飛び込んできたのは、強力な術式に囚われた、ジャバウォック。ジャバウォックを覆う赤黒い光は、ただでさえ恐ろしい姿をした彼の禍々しさを増幅させていた。 「私のすべてをもって、貴方を打つ。ノワールを救うのは私だってその身をもって知りなさい、ラズワード・ベル・ワイルディング!!」 「――っ、」  ジャバウォックがすさまじい声をあげる。二重契約による負荷に苦しんでいるのだろう。今にも契約の檻が破れて暴れ狂いそうな勢いであったが、かろうじてそれは阻まれていた。ジャバウォックほどの魔獣にここまで抵抗されては並の契約者であれば気が狂ってしまうであろうが、リリィは耐えていた。真っ直ぐにラズワードをにらみつけ、ただ敵を討つという意思だけを持っている。 「……それが、貴女の覚悟か。リリィ・デルデヴェール」 「……なに?」 「自らの命を投げ出し、ただノワール様の幸せを願う、ノワール様のためになら死んでもいい――それが貴女の覚悟か。ならば――俺に勝てると思うな。俺が死ぬときは、ノワール様を殺した時。ここで貴女に負けるなんてありえない。俺の命は、こんなところで捨てるわけにはいかないんだ。俺がここで覚悟することといったら――」  ジャバウォック――至上最凶の魔獣。何者も、彼には勝てないという。  しかし、ラズワードは至極冷静に、現状を分析していた。決して、あの魔獣に敵わないわけじゃない。あの魔獣には、今、二重契約の強力な負荷がかかっている。リリィに従順になったぶん、本来の強さを出し切ることができない状態にあるのだ。  恐るるに足らない。鎖に囚われた猛獣との勝負など、ノワールを殺すと決めたこの人生のなかではただの通過点にすぎない。 「――貴女の命懸けの覚悟を、剣の一振りで叩き潰す――その覚悟だけだ」 「――なっ、」  リリィの覚悟は、尊いものだった。しかし、彼女が立つ戦場はここじゃない。生と死、血と肉、力のみが勝敗を決める此処は、ラズワードの舞台。  力でノワールを救うのは、彼女ではなく、ラズワードだった。 「――ッ……」  すさまじいエネルギー派がリリィの頭上を突き抜ける。はっ、と息を飲んだリリィ、彼女が顔をあげれば――大量の血の雨が降ってくる。 「ジャバウォックは紛れもない化け物だ。けれど……これから、それ以上の化け物を殺す俺は、こんな化け物に足止めなんてされるわけにはいかない。ノワール様を殺すには、俺自身も化け物にならないといけない。そこをどけ。人間の貴女に、俺ばけもの を止めることなどできやしない」 「……ジャバ、ウォック……」  リリィの視界に映ったのは、上半身が消し飛んだジャバウォックであった。かろうじて、強靱な骨によって守られた心臓は残っているが、それ以外は顔も何もかもがなくなっている。 「――がっ、……は、」  ジャバウォックの敗北――それをリリィもラズワードも確信した。その瞬間だ。リリィは血を吐いてその場に崩れ落ちてしまう。  強力な繋がりを持つジャバウォックの体が一気に破壊されたことによる衝撃、そして二重契約の負荷。それが一気にリリィの体にのしかかったのである。リリィは顔をあげることもできず、こうべを垂れて噎せるようにして血を吐き続けていた。 「り、リリィ……!」  今にも死んでしまいそうな彼女の様子に、ラズワードは思わず駆け寄った。決闘の決着がついたあと、敗者を労わるのはご法度ではあるが……彼女は、ノワールにとっても大切な人である。女性を放っておけないラズワードの気質もあって、ラズワードはリリィのことを見捨てることができなかった。 「今、治癒魔術を……!」 「……結構よ。みじめになる」 「しかし……!」 「……がは、……そもそも、普通の治癒魔術ではどうにもならない、……ジャバウォックとの繋がりは、とても、特殊なの」 「……じゃあ、どうすれば……」 「放っておいて。死ななければ、自然回復でこれはどうにかなる。……そんなに私の体を、治したい? ノワールの仲間だから?」  ラズワードが抱き上げれば、リリィは青白い顔で不敵に笑った。その瞳には、涙が浮かんでいる。負けた悔しさもあるだろう。しかし、きっと彼女の心の中には。ノワールへの想いが負けてしまったのではないかと、そんなショックもあったに違いない。  この決闘は、ノワールを賭けた戦いである。この決闘の敗北は――ノワールへの想いの敗北を意味すると言っても過言ではない。もちろん、力の差など想いの強さでどうにかなるものではないのだが――リリィも、ラズワードも、この決闘をそうとらえていたのだ。 「……倒れた女性を放っておくなど、あってはならないことです」 「……大した騎士道ね。……けれど、貴方、いつまで騎士でいられるのかしら。……いつまで、レッドフォードの騎士でいられるの? こんな決闘に、臨んでおいて」 「……」  ぜえぜえと息を荒げながらも、リリィはその眼光を弱めることはなかった。敗北し、体も心も折られてなお、ラズワードの深層へ迫ろうとしている。自分を倒した男の本質を見極めなくては、ノワールのことを任せられないからだ。 「ノワールのことを殺すんでしょう。ノワールへ戦いを挑むのでしょう。それは、レッドフォードへの裏切りを意味するわ。今の貴方の立場のままでは、ノワールへ戦いを挑めない」 「……それは、……なんとか、します」 「……けど、それは大きな問題ではないわね。自分でもわかっているだろうけど……貴方、ノワールのことどう思っているの? このままハル・ボイトラー・レッドフォードの恋人として赦されるの?」 「――ッ」  レッドフォードに属する者として、ノワールへ戦いを挑んでもいいのか。その質問については、はぐらかせた。実際に、レヴィが親族への革命を企てているところだ。ノワールへ戦いを挑むことについては、様々な障壁はあるにしても不可能なことではない。  しかし、ノワールへの想いについて。この質問を、ラズワードは即座に交わすことができなかったのである。  この決闘に応えると決めたとき。自分の心の在りかを、見定めた。そう、ノワールを愛するリリィと決闘するのならば、自分もそれ相応の想いを持っていなければいけないと。この決闘に応えたいと思った、自分は。ノワールのことを、どう思っているのか……それに、気付いてしまった。 「……、」  ぽつ、と生暖かい雫が、リリィの頬を叩いた。雨、ではない。リリィがはっと目を瞠る、その先には――瞳に涙を溜めた、ラズワードが。 「……、ラズワード?」 「……っ、……すみま、せん……」  ひとしずくの涙が、皮切りとなって。ラズワードの瞳からはぼろぼろと大粒の涙がこぼれだした。深いブルーの瞳から雫がこぼれ落ちる様はまるで海をひっくり返したようで、リリィはラズワードの泣き顔に思わず見入ってしまった。  ラズワードは少女を抱きかかえながら泣くということに頭の端っこの方では抵抗感を覚えていたが、涙を止めることはできなかった。胸が、きりきりと締め付けられるようだった。あまりにも、苦しかった。   「……ずっと、……知らないふりをしていたんです。……ずっと……」  ――ノワールのことをどう思っているの?  リリィから投げかけられた質問は、ラズワード自身が常に自分に投げかけていたものだった。自分は、ノワールのことをどう思っているのだろう。時折、すべてを投げ出してノワールのことを考えてしまう自分は、おかしいんじゃないか。ノワールと過ごした日々を何度も何度も夢に見てしまう自分は、狂ってしまったのではないか。幾度となく、自分自身に恐れた。自分自身を責めた。ハルに微笑みかけられるたびに、罪悪感に押しつぶされそうになった。  本当は、知っていたのだ。  この感情が、この世界のすべてから否定される感情であったから、殺していただけで。 「俺は、……俺、は――……ノワール様のことが、……」  潮風の中で、漣の煌めきを浴びて、細い彼を抱きしめた――あのときの、心臓が焦げるような切なさ。あの切なさの名を――ラズワードは、知っていた。  ――その名を、口にしようとしたときだ。 「……ラズワード、!」  地鳴りと共に、魔獣が現れた。まだ、生き残りがいたらしい。体を動かすことのできないリリィは声を張ることしかできなかったが――ラズワードはその声に反応しようとしない。聞こえているのかも不明だ。瞳に陰を落として、ただただ、泣いている。 「ら、ラズワード……後ろ、……魔獣が出たわ……! 聞こえているの、ラズワード!」 「……」 「ちょっと――……」  このままでは自分と一緒にラズワードもやられてしまう――リリィは焦ったが、どうすることもできない。迫ってきた魔獣がラズワードに攻撃を仕掛けてきたところで、リリィは思わず目を閉じる。 「――っ、」  ――しかし、しばらくしても衝撃は襲ってこない。寸でのところでラズワードが防御したのか、と些かほっとしながら目を開けたリリィは、「うっ」と声をあげた。 「うわあ、本当に先輩ここに来てたんですね!」 「あっ……アベル……」  魔獣の攻撃を塞いだのは、神族のナンバーツーの青年・アベルだった。リリィは助かったと安堵したのと同時に、血の気が引くのを覚える。彼がここにいるということは……確実に、ノワールから命令を受けてきたということだ。アベルの口ぶりからも、ノワールが「リリィが行っているだろうから助けてこい」と命令したのだろう。「行くな」という言いつけを破ってここまで来てしまっていたリリィとすれば、ばつが悪い。 「そこの……ラズワードくんだよね? どした? 戦闘不能?」 「……」 「……? まあ、いいや。今ので最後の魔獣だよね。魔獣討伐ご苦労様。先輩のことは俺が回収していくから、ラズワードくんもさっさと帰るんだよ」  アベルは攻撃を仕掛けてきた魔獣をあっさりと倒すと、ラズワードの腕からリリィを奪うようにして抱え上げた。ラズワードがなぜ俯いたまま動けずにいるのか――そんなことをわかるはずもないアベルは、困ったような顔をして笑っている。   「あ、アベル……待って、まだラズワードと話が終わってない」 「話? 何も話してなかったじゃないすか。それに、時間もないから悪いですけど帰りますよ」 「で、でも……!」  ラズワードから答えを聞いていないリリィは、その場に留まろうとアベルに抗議した。しかし、アベルはそんなリリィの声を無視して歩き出してしまう。   「……リリィ、……待ってください」 「……! ラズワード!」  アベルが一歩踏み出したところで、ラズワードが掠れた声でリリィを呼び止めた。  ラズワードのことが気がかりだったリリィは、はじかれたように声をあげて目線だけをラズワードに向ける。 「……リリィ、ひとつ、頼みがあります」  ラズワードは、ゆっくりと顔をあげた。  乱れた前髪の下の、ブルーの瞳が、涙に濡れている。その瞳に映っているのが光なのか、闇なのか――それが、リリィにはわからなかった。吸い込まれるように昏いのに、魅入られるほどに美しいのだ。 「……ノワール様に、伝えていただけますか。……会いたい、と」

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