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「……俺、もしかして氷高の部屋にくるの、初めて?」  住み込みで働いている、氷高。氷高の私室が鳴宮家にはあるのだが、契がその部屋にはいったことは今までなかった。当然といえば、当然である。ただの執事の部屋に、主人がはいる必要性などないのだから。  自分の部屋とは匂いの違う氷高の部屋に、ちょっとした高揚感を覚えて、契はきょろきょろと部屋の中を見渡した。契の部屋よりは質素で、でも全く生活感がないというわけではない。執事だからお堅いものばかり置いてあるのかと思ったが、机にはミュージックプレイヤーやらスマートフォンの充電器やらが置いてあって、普通の今風の若者のよう。立派なシアターセットが置いてあるのが、特に印象的だ。  ちょっぴりどきどきして。そして、どうしたらいいのかわからなくて。契が立ち尽くしていれば、氷高がじっと契を見つめてきた。 「……契さま?」 「……え?」 「?」 「いや疑問符に疑問符を返さないでくれる?」 「?」 「?」 「えっ! 恋人の部屋にはいってきてなにもしないおつもりですか!?」 「いつからおまえと俺が恋人になった!」 「恋人という設定で今日一日「練習」してきたのでしょう?」  「練習」。そうだ、これは練習だ。氷高がなにやら意味のわからないことを言っているが、これは契に恋人ができたときの「初めてのお部屋訪問☆」のシミュレーションなのである。  そうとなれば、まじめに練習に取り組まねばならない。契はそわそわとしながら、どういった行動をすべきか考えた。恋人の家に行って、……母親がでてきて? 挨拶をしたら、それから……手を洗うのか? そして? 「時間切れです。契さま、俺にキスをしてください」 「えっ」 「恋人の部屋にはいったら、まず! 余裕のない、せっぱ詰まったキスをするのが常識でしょう! 壁ドン付きで!」 「そ、そうなのか……!?」 「男の妄想協会では常識なので。さあ、契さま。どうぞ」 「……、……わ、わかった」  契が考えているうちに、氷高が痺れを切らしたらしい。聞いたこともない「答え」を契に言い放つ。しかし、それが常識ならば、仕方ない。やらねば、「練習」にならないのだから!  契は意を決して、じっと氷高を見つめる。  キス……は一度したから、そこまでは抵抗……あるが、ない。しかし、氷高の言っているキスの仕方が、よくわからない。せっぱつまりながら、余裕のないキス? 壁ドン付き? うんうんと悩み、とりあえず契は、ゆっくりと氷高の脇に両手をついた。 「壁ドン、ご存じでしたか」 「クラスの男子とふざけてやりあったことあったから……」 「クラスの男子殺す」 「こえーよ! ……で、これからどうしたらいいんだよ。……なんか氷高の言っていることわからないんだけど……」 「そうですね……とりえあず、キスしてみましょう!」 「キスをとりあえずですますなよ……」  キス。とりあえず、恋人の部屋に初めてきたときは、壁ドンをしてキスをするんだ。  契は氷高に言われたことを真に受けて、ごくりと唾をのみこんだ。公園でのキスとは違って、今度は自分からしなければいけない。なんで氷高なんかに自分からキスをしなければいけないのかわからないし、屈辱だが……これができなければ一生恋人の部屋にはいけない。いや、恋人にふさわしい人間にこれから先出逢えるのかわからないが……しかし、念のため、練習はきっちりしておかねばいけないだろう。  少し自分よりも背の高い、氷高の目線に合うように。契はぐっと背伸びをする。つま先がぷるぷるとふるえてつらくて……契は、壁ドンは諦めて、氷高の肩に手をかけた。 「……壁ドンとしては50点ですが、俺の股間膨張率は100%ですね……」 「ちょっと黙ってくれる?」  ……なんで躍起になってこんな変態にキスをしようとしているのだろう。  ふと、我に返ったが、契はキスをやめようとはしなかった。あと数十センチで唇が重なる、そこまで近付いた今。なぜだか妙に心臓がばくばくといって、彼から離れたくなくなってしまったのである。 「……あの、氷高」 「はい」 「……あんまり、……見ないでくれる?」 「……、じゃあ、目を閉じますね」  見つめられると、恥ずかしくて仕方がない。恥ずかしい想いをさせられているのに腹が立って、氷高に目を閉じてもらったが……なぜかばくばくは止まらない。  静かに、すっと瞼を伏せた氷高。こうしていると、恐ろしいほどに彼は顔立ちが整っていて……思わず、契は彼に見とれてしまった。黙っていればきれいなのに……そんなことを考えて、じっと氷高の顔を見つめる。  ……なんでこんなに綺麗な顔をしているのに、俺のことばかり見ているんだろう。もっと、美人な女の人とかをつかまえればいいのに。  今までの氷高の行動を思い出して、契はわけがわからなくなった。それと同時に……きゅん、としてしまった。そうだ、絃の前で話していたときのようにーー氷高は、ほかの人の前では完璧な執事。変態になるのは、自分の前だけ。あの、仮面のような完璧さを崩してまで本性をさらけだしてくれるのは、自分の前だけなんだ……そう思うと、契はなんだかたまらない想いがあふれてきた。完璧人間の氷高を唯一狂わせることができる……それが、自分。そう思うと、契は顔が熱くなってしまった。 「……氷高」 「……、」 「……これからも俺のことだけ、見てろよ」 「えっ……、ん、」  ぽろり。あふれ出した想いを口にしながら。  契は、氷高に口づけた。 「……っ」  それは、一瞬。ふれるだけの、ほんの一瞬だった。すぐに唇は離れていって、ぬくもりのひとつも残さない。しかし――やわらかな感触は、刻印のようにそこに居座り続けた。

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