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「――お疲れ、氷高くん。今日はもう、ゆっくり休んでくれ」
「はい。絃さまも」
すっかり屋敷も静かになったころ、氷高と絃は帰ってきた。時刻はもう日付を越えそうになっている。氷高は絃と別れると、スーツケースを引っ張って自分の部屋へ向かっていった。荷物を置いたらすぐにシャワーを浴びに行こう、そんなことを考えながら。
屋敷の中は、灯りがほとんど消えていて、ぽつぽつと常夜灯がついているくらいである。だから、氷高は違和感にすぐに気づいた。
――氷高の部屋の灯りが、ついている、ということに。
扉の隙間から、光が漏れているのだ。中には誰も居ないはずだし、電気のつけ忘れなんてこともあるはずがない。氷高は訝しげに眉を潜めながら――そっと、部屋に近づいていく。
「あっ……」
そっと扉を開けて、氷高はつい小さく声をあげてしまった。ベッドに――契が、寝ていたのだ。頭まですっぽりとふとんを被った状態で、髪の毛だけをちょこんと覗かせて。
「せ、契さま……?」
なぜ、自分の部屋に契がいるのか。まさか氷高が出張に行っている間に契が氷高のベッドを使っていて、そして今日は氷高のことを想ってベッドの上で泣いていたら、泣き疲れていつのまにか寝てしまっていたなど――そんなこと、氷高にわかるはずがない。氷高はただただ混乱することしかできず、そして契を起こすわけにもいかないから行き場を失い、とりあえず部屋の中にはいったもののどうしたらいいのかわからなかった。
これは客間のベッドを使うべきか……そんなことを考え、とりあえず箪笥から寝間着だけを取ろう――そう思った時。
「ん……」
「せっ、契さま」
ベッドが、もぞりと動く。起きてしまったのだろうか……氷高は肝を冷やし、固まる。案の定、契は目覚めてしまったようで……もそ、と布団から顔を出し、ごしごしと目を擦っている。
「……ひだか?」
「あっ、は、はい!」
「……夢に出てくるとか、……最悪、氷高……」
「はっ、え、……す、すみません」
どうやら契はまだ寝ぼけているらしく、氷高の姿を認めても「夢」としか思っていないようだった。ぼけーっとした表情で氷高を見て、不機嫌そうに目を細めている。
あからさまに自分を疎むようなことを言われて、氷高は心臓のぐさっと杭でも打たれたようなショックを受けた。渡独する前から契が何か怒っていたのは知っていたが、こうも「素」の状態でそのような言葉を吐かれると、流石に傷ついてしまう。
氷高はどんよりと気分を落ち込ませながらも、契を寝かしつけようとベッドに近づいていった。もう一度枕に頭を乗せてやれば、また寝息を立て始めるだろう――そんなことを考えて。
「まじ、……夢にまで見るとか、俺、……どんだけ、……」
「契さま、ちょっと失礼します、寝ましょうね、契さま」
「……氷高、なあ、氷高」
「はい、なんですか、契さま」
「……キス、して。そしてそのまま、ずっと、傍にいろよ、氷高」
「……はい?」
しかし、氷高は契の口から出た言葉に固まってしまう。普段の契ならまずありえない、甘ったるい誘い文句。「寝ぼけているからだ」と自分に言い聞かせたいところだが、寝ぼけているにしても何故自分に対してそんなことを言ってくるのか。
混乱に混乱を重ね、しかし契にキスはしたくて、氷高は契の誘いに乗ろうと意を決する。ドイツにいる間、ずっと契のことを考えていたのだ。寝ぼけているにしても「キスして」なんて言われて、それを跳ね除けられるわけがない。
「契さま……私も、貴方の夢を何回もみたのですよ。貴方とこうして――ベッドで、キスを……」
「氷高……」
氷高がベッドに腰を掛けて、契の頬に手を添えれば、契はうっとりとしたような顔をして氷高を見つめてきた。
夢の中で、この人は何を考えているのだろう。夢の中の自分とは、どんな関係なんだろう――……そんなことを考えると、氷高は狂おしい気持ちになった。
契が、目をとじる。頬を染めて、期待いっぱいにキスを待っているその顔は、まさしく恋をしている表情だった。氷高は夢の中の自分に嫉妬をしながら、そっと唇を寄せていき――……
「――……って、ちょっと待て! えっ、待て! 夢、じゃない!? は!? これ、夢じゃない!?」
「……ッ、なぜ突然目を覚ますのです!?」
あと数ミリで唇が重なる、というところで。
氷高は契に突き飛ばされた。
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