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「ひ、氷高……!? な、ななななんでおまえがここにいる!?」 「なんでって……私の、部屋ですから…… 」 「えっ、あ、ああ!? べ、別に俺はおまえがドイツに行っているあいだずっとおまえのベッド使っていたとか、そんなことしてないからな!  た、たまたま、その、たまたま今日はこのベッドで寝てみようかなとか思っただけであって、」 「契さま」 「な、なんだよ」  契はもはや混乱状態に陥っているようだった。氷高のベッドを使っていたことがバレた、心の準備もできていないのに氷高と再会した、そしてうっかり寝惚けて「キスして」と言ったら本当にキスをされそうになった。様々な衝撃が、契の冷静を奪ってた。  氷高は、そんな契を可愛いと思った。自分の見ていないところで愛らしい行動をとっていたなんて、狂おしいに決まっている。でも――氷高は、そんな「可愛い」をぐっと抑えこんだ。  ――言わなければいけないことがある。 「……ただいま、帰りました。契さま」 「……、おう」  そうだ、「ただいま」。その言葉を、氷高は契に言わなければいけなかった。  その、ただの挨拶のような言葉は。今の氷高にとって、何よりも大切な言葉だった。礼儀とか、そういった問題ではない。氷高のなかの、ある決意のために。 「……氷高。あのさ」 「はい」 「……みたよ。父さんがあげていた写真。氷高の、……エーゴン監督と一緒に写っている写真」 「――……!」  その、決意。それを、氷高は契に告げようとした。しかし、その決心がすぐに崩されてしまう。  混乱をなんとか鎮めて、静かに語りかけてくる、契。そんな彼の言葉に、動揺したのだ。なぜなら、氷高の決意とは――…… 「……氷高、楽しそうだったな。……俺、嬉しいよ。氷高が、自分の夢に向かっていっているの」 「――契さま……!」  氷高の決意、とは。その、映画監督になりたいという夢と、今まで氷高が就いていた執事という職についてのことだからだ。まさか、契の口からその決意に関わるワードを発せられるとは予想していなかったため、氷高は驚いてしまったのだ。そもそも、氷高がドイツでエーゴン監督と会っていたということを契が知っているとも知らなかった。 「……いいと、思う。氷高、おまえが行きたい道を進めよ。俺に、それを止める権利はない」 「……契さま」 「父さんも一緒にいたんだろ。それなら、氷高の想いは父さんも知っている。執事をやめるのにそう面倒なことにはならないだろ。すぐにでもここから出て、そしてドイツに移住しろよ。おまえのためだ」 「……止めない、んですか?」  さらには、次々と契の口から出てくる言葉が氷高の決意を揺らがせた。  氷高にドイツへ行くことを勧めるような、離れ離れになっても寂しくないとでも言っているような、そんな言葉が氷高の心を傷つけた。契が、自分の夢を応援してくれているのだと、わかっていても。   「……止めないよ。だって、俺とおまえは、ただの――主人と、執事じゃん。」 「……、それは、……そう、ですけど、……」 「……おまえだって、……そう思っているだろ。止めるほうが、おかしいんだよ」  しかし、揺らいだ氷高の決意は、また、再び息を吹き返す。一瞬見せた契の表情が、あまりにも切なそうだったからだ。氷高を突き放すようなことを言いながら、泣きそうに、瞳を震わせている。  様々な感情が溢れ出てきて、喉の奥に不快感が生まれてしまった。それを解消するように、氷高は、ごく、と唾を飲み込む。こめかみのあたりがさーっと冷たくなっていって、それと同時に、どくどくと心の臓が高なっていく。 「……契さま。ひとつだけ……聞いてもいいですか?」 「……なんだよ」 「……主人と執事である前に、……契さまと、俺。そう考えた時、貴方と俺はどういう関係になるんでしょう」 「……へ、なにそれ。知らないよ。幼馴染? ご近所さん? なんだろうな」 「……明確な、名前はないかもしれませんね。でも、……俺は、……貴方に、……契さまとして、俺を、引き止めて欲しい」 「は?」 「ドイツにいくなって、言って欲しい。もう二度と俺の傍から離れるなって、言って欲しい……!」  契の、自分の感情を抑えこむような表情に焦燥を覚えて、氷高はついに爆発させた。  たくさん、考えたことはある。きっと、契がそのような言葉を言うに至ったのは、今までの自分の態度が原因だ。主人と執事という関係からはみ出ることがないように、肝心なところで抑制してしまっていたせい。それが今まで正しいと思っていたし、これからもずっとそうやっていこう――そう思っていたけれど。  契の、表情。本心を隠すことが下手な、彼の顔。それを、見ていたら。切なそうな顔をしたり、焦ったようにキスをしてきたり、やきもきして怒ったり。そんな契を見ていたら、氷高はあることに気付いたのだ。  ここまで、抑えこむ必要はどこにあるのだろうかと。  契に、特別な感情を向けてはいけないと思っていた。「ご主人さま」である契に、特別な関係を期待することは不敬にあたる、そう思っていた。彼は主人、自分は執事。その枠から出ることはあってはならない――そう思っていた。けれど、違う。そうやって、自分の「本心」を抑えこんで、肝心なところだけを絶対に言葉にしないで、そうしていたら――契は、こんなにも哀しそうな顔をする。それは、「氷高 悠唯」として正しいことをしているというのだろうか。 「……契さま」 「え、」 「どうか、バカな奴だと笑って聞いてください。俺は、ひとつ、ドイツで決意したことがあるのです」 「……、うん、」 「……俺は、映画監督になるという夢は捨てることにしました。貴方のそばにいる、その選択をとります」 「――は!?」  だから、氷高は決めた。抑制はしない。自分の気持ちと向きあおうと。それを契がどう思うのか、それを完全に見通すことは不可能だ。しかしそれでも、自分の心を隠し続けるほうがきっと、契にとっては哀しいこと。 「ば、ばかかおまえ! 本当にそれは大馬鹿だ! どこの世界に映画監督って夢を捨てて執事として日陰で生きることを選ぶ奴がいる! 自分の夢を捨てていつまでも他人の下でくすぶっているなんて、男としてやることじゃない!」 「――そうです、俺は大馬鹿です! 世界へ飛び立つチャンスを捨てて恋を選んだ、大馬鹿です!」 「――え……?」

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