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――何を、氷高は言っているんだろう。
契は氷高の言葉に、固まってしまう。珍しく氷高が声を荒げたことにもびっくりしたし、何より……氷高の言った言葉の意味自体がわからない。
「恋を選んだ」――とは?
「……絃さまには、止められました。そして、貴方も私の考えを否定する。貴方の傍に居たいあまりに掴めそうになった大きな夢を捨てるなど、愚か者がすることだと、俺を糾弾する。けれど――……けれど! 俺は貴方が好きだ……! 貴方がいない未来なんていらない、貴方が傍にいないのに夢を叶えても、俺は幸せになれない!」
「えっ、あ、あの、……ひだか……?」
今までの氷高からは考えられないような勢いでド直球な告白をされて、契は思考がフリーズしてしまった。完全にキャパオーバーである。かーっと顔を赤くし、おろおろと視線を泳がせて、しどろもどろに「いや」「あの」と口ごもるばかり。
ずっと会えなくて、ずっと触って欲しくて、でもなんでそんな風に切なくなってしまうのかわからない。そんな悶々とした想いを抱いていた氷高に、あまりにもわかりやすい告白をされて、契の頭の処理が追いついていないのである。今自分は嬉しいのか、恥ずかしいのか、びっくりしているのか。今まで自分は彼のことを好きだったのか、嫌いだったのか。ぐちゃぐちゃと頭のなかが混ざり合って、結局ひとつにまとまらない。
ようやく絞り出したのは――……氷高の幸せってなんだろう。そんなこと。自分が彼をどう思っているか、それよりも、彼にどうしてほしいのか。契はその想いを最優先させた。彼の幸せのために、自分が彼にいうべき言葉はなんなのか、それを考える。
焦る頭を落ち着かせ、興奮気味の氷高を見据え。契は軽く息を吸って、出来る限り落ち着いた声色で、声を発した。
「……昔、氷高……言ってたけど」
「……はい?」
「……亡くなった、由乃さんに……「夢を追い続けて」って言われたんだって。氷高はそう教えてくれた。いいの? お母さん、氷高に……映画監督になってほしいんじゃないの?」
「……母さんは、……夢を追うための能力を、がんで失ってしまったから。だから、健康体の俺にそう言ってきたんです。……映画監督になる夢も、応援してくれた。けれど、母さんが「夢を追い続けて」って言ったのは、別に……映画監督を目指し続けろって意味ではありません」
「違うの?」
「俺に幸せになってほしいってことだったんです。母さんにとっての幸せは、歌うことだった。だから、歌声を失って幸せも失ってしまった。俺には夢を諦める理由なんてどこにもないんだから、どうか幸せを諦めるな、夢を追い続けてって……そういう意味で母さんは俺に言ったんです」
「……氷高の幸せ、って」
なぜ――こんなにも、氷高の幸せについて自分は考えているんだろう。別に、氷高はただの執事なんだから……俺のしたいようにすればいいじゃないか。契は氷高の切羽詰まったような顔を見ながら、そんなことを思う。彼を拒絶したいのなら、すればいい。彼と一緒にいたいのなら、傍にいろと命令すればいい。それなのに契は――氷高が幸せになるために、自分はどうすべきか……そんなことばかり、考えている。
正直。「傍にいろ」と命令したい。その理由もわからないけれど、とにかく氷高には傍に居てほしい。けれど、それが彼のためにならないのではないかと考えると、その言葉はでてこない。
契の葛藤に、氷高は気付いているのだろうか。いや、気付いていないだろう。氷高は氷高の中で、葛藤していたのだから。契の気持ちに気付く余裕など、なかった。
「俺の幸せは……契さまの、傍に、……。……いえ、」
しかし――お互いに、お互いの葛藤に気付くことはなかったが、お互いの想いは重なりつつあった。契は絞りだすような氷高の声に、こく、と唾を呑み込む。彼の表情に、思わずどきんと心臓が跳ねた。
氷高は震える手で契の手を取ると、ゆっくり、持ち上げる。その手が本当に震えていて、汗ばんでいて、あまりにその氷高の様子が珍しいものだから、契は呆然としてしまった。
氷高は顔を赤くして、瞳を震わせて、そっと契の手の甲に唇を寄せる。手の甲に吐息がかかって契がびくりと手を震わせると、氷高までビクッ! と体を震わせた。
あと数ミリ、触れるか触れないかの距離で、唇が触れる。そこで氷高は動きを止めた。伏し目がちの目を隠す睫毛が震えていて、契まで緊張してきてしまう。
「――貴方を、好きでいることです。」
そこからの氷高に――契は目を奪われた。
迷ったように、苦しむように、瞳を震わせ……そして、目をとじる。懇願するように、あまりにも淑やかに、氷高は契の指先に口付けたのだ。
「氷高――……」
氷高にとって、契に恋をするということは――不敬にあたること。しかしそれでも、もう、想いを抑えることなんてできなかった。とうとう、告白してしまった。ずっとずっと抑えこんで、無視してきた想いに答えを出してしまったのである。
氷高は、ここに来るまでに、契に想いを伝えようとは覚悟していた。しかし、その覚悟に至るまで、酷く苦しんだ。自分の中で、執事として持つべきだと信じていた倫理観と激しく戦っていたからだ。主人に恋をしてはいけない、と。なんとかそれに打ち勝っても、いざ告白してみると――凄まじい後悔が迫り来る。
きっと、契さまは不愉快に思ったに違いない。執事が主人に恋心を抱くなど……無礼だと、侮蔑するかもしれない。
「……氷高。顔、あげろ」
「……、契さま」
顔を赤くしたまま、自らへの嫌悪感に項垂れる氷高。契はそんな氷高を見て――糸が切れたように、ふっと小さく吹き出した。辛そうに、もがくように、そんな顔で告白をされて。契は氷高に、なんとも言えない愛おしさを覚えたのだ。
契は氷高の頬を優しく撫でると、柔らかい声で命令した。なかなか聞けない契のその声に、氷高はハッとしたような顔をして、顔を上げる。
「……俺さ、映画監督と俺の執事なんて比べたら、絶対に映画監督のほうがでっかくて、目指すのにも色んな覚悟が必要な夢だって思ったんだよ。でも、そんな顔で好きなんて言われたらさ、……」
「契さ、ま」
契が、両手で氷高の頬を包む。そして、こつ、と額をぶつけてきた。
氷高が、目を見開く。契の瞳に――涙。そして、顔には……困ったような、優しい笑顔。
「……どんだけ俺の存在がおまえのなかででっかいんだよ。映画監督の夢よりもでかいのかよ。好きって言うのにそこまで緊張すんなよ。いくら俺が契さまでもさ……ばかじゃねえの」
「……、」
「いいよ、俺のこと好きになっても。俺が許す。おまえは幸せになれ」
「契、さま……ッ、」
――契が、氷高の恋を許した。それは、氷高にとって何よりも嬉しいことだった。
今まで自分を抑え込んでいた鎖が一気に壊れた氷高は、がばっと勢い良く契に抱きつく。勢いのあまりそのままベッドに押し倒してしまえば、契が「はいはい」と氷高の頭を撫でてくる。氷高はとうとう耐え切れなくなって、涙を流して……契をキツく抱きしめながら、嗚咽を上げ始めた。
「ほんと、おまえ、ばか。普通男なら、好きな人よりもでっかい夢を追うと思うよ」
「はい、……俺は、……ばかです、……好きです、……契さま、……好きです」
「ばかだよ、マジで大馬鹿。馬鹿すぎて……呆れる」
契はぶつぶつと氷高に悪態をついていた。複雑な気持ちが、心の中で渦巻いていた。
氷高は、本当に夢を諦めてしまっていいのだろうか。自分のせいで、未来の氷高 悠唯という映画監督が登場しないなんて……それは許されるのだろうか。そんな風に氷高の恋を許したことを後悔しながら――氷高に、こうして想いをぶつけられることに喜びを覚えていた。彼の恋心を一心に浴びることが、本当に嬉しかった。
自分は、エゴイストなのだろうか。そんな、自己嫌悪を抱く。それでも、どうしても……こうしていたい。彼とずっと一緒にいたい。絡みあう想いがかえって熱となり、契は狂おしい想いを抱いていた。心臓の鼓動はドクンドクンとあまりにも激しく、息をするのも苦しい。
「こっち見ろよ、」
「はい、」
何が、正解なのだろう。そんなことが、どうでもよくなってくる。
契に声をかけられ、氷高が少しだけ体を起こす。至近距離で契と目を合わせれば――契は顔を真っ赤に染めて、甘い声で言ってきた。
「……ばか執事。」
なぜか、その言葉が酷く愛おしげで、氷高は胸が震えるのを感じた。契はそれを悟ったのか、氷高の頭に手を添えて――軽く、自分の方へ引き寄せる。
二人は、唇を、重ねた。熱く、激しく重ねた。
「契さま――……」
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