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今日が休みでよかったと、氷高は心の底から思った。
契の言った、「立場逆転」。それを、契は氷高が思っていた以上に徹底してやろうとしていた。氷高の着替えをしたり、氷高にお茶を淹れたり。もしも今日学校があれば、リムジンを運転したいなんて言いかねない。
「ご主人様、今日は何を致しますか?」
「家でゆっくりしようと思います……思う、よ」
「映画でも観ましょうか?」
「そうですね……ンンッ、……そうだね、この前録画したものがあるからそれを観ようか」
しかし――休日であっても、氷高にとって立場逆転は想像以上に過酷であった。
まず、言葉遣いに慣れない。契に対し、敬語を使わないで話すということを生まれてこの方したことがない氷高は、契に対してタメ口で話すのが面映ゆくて仕方なかった。そもそもこの仕事に就いてから、日常生活でもずっと敬語を使った生活をしていたため、普段の話し方を忘れてしまっている。もはや敬語が普段の話し方になっている氷高にとって、契に敬語を使わないというのは異常に困難なことであった。
そして――氷高のことを「ご主人様」と呼び、淑やかにふるまう契が……あまりにも可愛い。可愛いを通り越して尊い、いや、神々しい。普段はふんぞり返っている契が慎ましく自分に寄り添ってくる姿は、氷高にとって毒であったのだ。変な気を起こそうとしてしまう――こんな、真昼間から。その衝動を抑えるのがどれほど辛いのか……契はきっと全く気付いていないだろう。
「~~ッ」
だめだ、と氷高は気を引き締める。
立場逆転で一日を過ごしたいと、愛する契が所望したのだ。それに応えられないようでは、執事失格である。
成し遂げようではないか。これも、契の執事たる立派な仕事である。
「――契」
「……っ!」
氷高はこわばった体から力を抜いて、リラックスした態勢を取る。脚を組み、ゆるりと背もたれに体を預け、そしていつもよりも甘い声色で、言った。
「そんなに距離をとらないで、もっとこっちに来て。俺のそばに」
「……、……ッ!? あっ……は、はい……! ご、ごしゅじん……さま……」
急に態度を変えた氷高に、契はカッと顔を赤らめた。
今までしどろもどろにタメ口を使っていた氷高が、一気に自然な口調に変わり、そして「近くにこい」と命じてきた。ソファへの座り方も、いつものピンッとしたお堅いものではなく、男性らしいゆったりとした座り方。
(か、……かっこいい……)
契はおずおずと氷高との距離をつめて、ちょん、と手を組んで緊張気味に座る。しかし、氷高はそんな契の肩を抱き、ぐいっと引き寄せてきた。ぱふ、と氷高の腕の中に体が収まって、契はドキドキのあまり目をとろん……とさせて、ぎゅっと身を縮こめる。
(やばい……もっと氷高に命令されたい)
普段、ビシッとした清廉な雰囲気を持つ氷高。契はそんな氷高を魅力的だと思っていたが、こうして普通にふるまう彼もまた……いつもとは違う色っぽさがあると感じていた。もし、自分と氷高が違う出会い方をしていたらこんな関係になっていたのかもしれないと思うと、ときめきそうになる。もともと、氷高が年上で契が年下なのだ。主人と執事という関係に生まれなければ、氷高はこういう風に契に接してきただろう。
今、自分はこの氷高の執事。命令をされれば、なんでも従わなければいけないのだ。そう思うと……なぜか、ゾクゾクとしてきて、体が熱くなる。いつもは感じない感覚に、契は少しの戸惑いと、興奮を覚え始めていた。
「ご主人様……今日は何の映画を観るんですか?」
「……この映画は、知ってる?」
「……?」
氷高に肩を抱かれながら、契は目の前に置いてあるテレビを眺める。
氷高の部屋の大きな特徴と言えば、鳴宮家の屋敷のなかでも一番大きいテレビで揃えられたシアターセットだろう。こんなものが彼氏の部屋にあったらかっこいいを通り越して軽く引くというレベルの、立派すぎるシアターセットだ。氷高曰く「稼いだ給料全部ここにつぎ込みました」らしい。見るたびに、「こいつ本当に映画好きだよな~」なんてちょっぴり切なくなる。
なんとなく、契が余計なことを考えていると、氷高がリモコンを操作して録画番組一覧を出した。当然のごとく、映画を流している有料チャンネルに登録しており、一覧にはずらりと映画が並んでいる。
「……これは、有名な映画なんですか?」
「ちょっと昔の映画で、日本では放映されなかった映画だよ」
「じゃあ、俺は知らない……か」
「一緒に観よう、契。こっちにおいで」
「えっ……う、わっ」
数ある映画から氷高が選んだのは、契が見たことも聞いたこともない海外の映画。氷高が勧めてくるのだからはずれはないだろうと、契は少しワクワクしていたが、そんなとき、氷高が契の体を抱え上げ、自分の脚の間に座らせてきた。肩を抱かれるだけでもドキドキとしてしまったのに、こんな体勢をとらされてはさらにドキドキしてしまう。慌てて契は逃げようとしたが――今は彼に抵抗しては、いけない。
「あ、あの……なんで」
「こうしていたほうが、暖かいから」
「あ、熱い、ですから!」
後ろから、少し、氷高が笑った声が聞こえて、契の心臓がどきんと跳ねた。
氷高がリモコンのスイッチを入れると、窓の黒いカーテンが閉まり、部屋の電気も消え、部屋の中は真っ暗になる。もはや、小さなシアタールームだ。二人だけの映画館と考えるとなおさら緊張してきて、契は氷高の腕の中でぎゅっと小さくなっていた。
「この映画――なんで日本で放映されなかったと思う?」
「えっ……うーん……怖すぎた、とか?」
「いや……」
真っ暗な部屋のなかで、映画が始まる。
オープニングは、どことなく大人っぽい雰囲気だ。ムーディーな音楽が流れ、落ち着いた映像が流れてゆく。
氷高は問の答えを待っている契を、ぎゅっと抱きしめた。ビクッと震えた契のシャツのボタンに、ゆっくりと指をかけ……そして、耳元に唇を寄せて、囁く。
「……過激すぎたんだ」
「――っ、」
つう、と契の首筋に汗が伝った。
頬が上気して、顔が熱い。氷高がしようとしていることに気付き、契はごく、と息をのむ。
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