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 女優とは、演技のプロである。そんな女優である天樹カレンと自分を比べることは不毛なことだと、契は一晩寝てから心の整理をつけた。そもそも氷高が興味を持っているのは天樹カレンだけではない。女性だろうが男性だろうが、心が惹かれる演技をする人に、氷高は興味を持つのだ。だから、こうして天樹カレンに対抗心を燃やしたところでなにも意味はない。天樹カレンが氷高に何らかの感情を持っていようと、氷高が彼女に抱く想いは特別なものでもなんでもないのだ。  昨夜は、氷高に失礼なことをしてしまった。そう思った契は、送迎の車の中で氷高に謝る。氷高は何事もなかったように笑ってくれたから、契は安心した。 「そ、そうだ、氷高……今週の日曜日、時間ある?」 「え、今週の日曜ですか?」 「い、行ってみたい店があるんだけど……」 「えっ」  ただ、氷高を傷つけてしまったという事実は変わらない――契はそう思って、少しでも氷高との間のわだかまりを消し去ろうと、氷高をデートに誘ってみる。  実は――契からこうしてはっきりとデートに誘うのは、初めてだ。少しドキドキしたが、違和感のある誘い方でもなかっただろうと、契は緊張しながら氷高の表情をうかがう。  しかし――氷高の表情は、予想していたものとは違っていた。 「せ、契さまからお誘いされるなんて……そんな……」 「ひ、氷高? なんか……もしかして、嫌だった?」 「ま、まさか!」  氷高は、困ったように視線を落としたのである。  正直、こちらからデートに誘えば氷高は喜ぶに決まっているとうぬぼれていた契は、彼の表情にさっと血の気が引くのを感じた。  もしかして……氷高は、思ったよりも、俺を好きじゃない? なんて。 「実は……先約が……」 「……そうなの?」 「食事に誘われていまして……」 「友達か誰か?」 「い、いえ……その……」  しかし、氷高が困ったような表情を浮かべた原因は、「先約があるから」のようだった。それならば、その表情は納得「せっかく契さまから誘われたのに、行くことができない絶望」の表情だ。契がほっと安堵の息を吐いたのも束の間――氷高は、契にとって今最も聞きたくないワードを口にしてしまう。 「天樹……カレンさんです」 「……は?」 契は耳を疑った。  ――氷高が、天樹カレンと食事に行く……いや、デートをする。  今をときめく女優・天樹カレンとあくまでただの執事である氷高がデートをするというありえない状況に驚いたというのもあるが、氷高が自分以外の人とデートに行くという事実になによりも驚いてしまった。契は言葉も出てこなくて、目玉が飛び出るくらいに目を見開いて、氷高を見つめる。 「な、なんでそんなことになってるの?」 「いえ……天樹さんからメッセージがきて……その、誘われたといいますか……」 「……一対一?」 「……おそらく……」 「……浮気者」 「えっ」  どうしようもなく胃の中がむかむかとして、契は不貞腐れたように氷高から目を逸らす。そして、自分で言った言葉に自分で呆れてしまった。  氷高は、浮気者でもなんでもない。そもそも――契と氷高は、恋人ではない、ただの主人と執事なのだから。こうして嫉妬をするくらいなら、氷高をきちんと言葉で縛り付けておけばよかったのだ。すべては、自分の気持ちを氷高に言うことができなかった自分が悪い。それをわかっていた契は、それ以上氷高を責めることもできず、こみ上げてくる涙を堪えるのに必死だった。  氷高は……天樹カレンとデートをしたら、きっと彼女にもっと惹かれてしまう。彼女の魅力をわかっていた契はそんな未来が見えて、吐きそうになるくらいに後悔した。  もっとはやく素直になれていればよかった、と。 「せ、契さま……私は、天樹さんにやましい気持ちなど抱いていません……! ただ、お付き合いの一環として……」 「……いや、……ごめん、変なこと言って。別に、氷高が悪いとかじゃないから……」 「あの……私は本当に、契さまだけのことを……」 「……うん」  契は、氷高が何を考えて天樹カレンとのデートを承諾したのかを、知らない。だから、普段は女性からの誘いを全て断っている氷高が今回の誘いを断らなかったということを、天樹カレンへの好意によるものと受け取っていた。氷高は自分だけを好きでいてくれるはずと信じていたものも、崩れてしまった。氷高のどんな言葉も、ご機嫌取りにしか聞こえない。  魂が抜けてしまったような表情を浮かべる契に、氷高はどう言葉をかければいいのか迷った。なぜ天樹カレンからの誘いを断らなかったのか、その理由を今の契に言ったところで、きっと言い訳にしか聞こえないだろう。あの時、迷わず断ればよかった――氷高はらしくなく冷静を失ったような考えを浮かべ、強く、後悔する。  しばらくの沈黙の後、ようやく、学校に着いた。契はちらりと氷高を見ると、へら、と泣きそうな顔で笑う。 「じゃ、行ってきます、氷高」 「――……、せ、契さま……」  車から降りていく契に、氷高は無意識に手を伸ばした。しかし、手は空を切り、契は振り返りもせずに氷高のもとを去っていった。  

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