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「今日の放課後から、契さまのお仕事が始まるんですね」 「始まるっていっても……まだ、ちょっとした撮影があるくらいだけど」 「……おや、謙遜ですか? 契さまらしくない。少しの撮影でも立派なお仕事ですよ」 「……うん」  学校への送迎の車で、氷高は後部座席に座る契に話しかけていた。  しかし、契はいまいち元気がない様子だ。緊張しているのだろうか、それとも両親に氷高との関係がバレたのがショックだったのか。契が気落ちする原因はいくらか想像がつく。どう契を励ましてやろうかと氷高が一瞬考えたときだ。契が身を乗り出してバックミラー越しに氷高を見つめてきた。 「あのさ、氷高」 「はい?」 「氷高って結婚に興味ないの?」 「急になんですか」 「いや……氷高ってもう結婚考えてもいい歳じゃん? でも、結婚のこととかあんまり考えていなそうだし……いいのかなあって。このまま俺と一緒にいたら結婚できないし」 「……そんなこと考えるくらいなら、もともと貴方の執事になろうとしていません」  ――何を尋ねてくるのかと思えば。  突然の質問に、氷高は少しばかりカチンときてしまった。今まで心からの奉仕をしてきたし、好意も伝えてきたし、それなのにそんなことを聞いてくるなんて――今までの彼との時間はなんだったのか、と思ってしまったのだ。  氷高は自分の眉間にしわが寄ってしまったことに気付いて、なんとか平常心を保とうとするが……どうにも契の質問に納得できない。自分のことを思っての質問かもしれない、とも思えるが、それでも苛立ちを覚えてしまうのは仕方ない。  できるだけ、この怒りは表に出してはいけない。執事という身分である自分が、主人に意見を言うなんてことあってはいけない――そう思って氷高が黙っていれば。 「だよなあ。そう言うと思った。氷高にとって結婚なんてしようがしまいがどうでもいいことって感じがする。氷高にとっての幸せって、俺の傍にいることだもんね?」 「……へ? あ、ああ、そうですけど……」  ――あれ?  予想外の契の反応に、氷高はずっこけそうになる。  契は、氷高の気持ちはきちんとわかっているらしい。  では、この質問の意図とは……? 「俺ね、結構……結婚のことすごく大切なことって考えているみたいでさ。ちょっと結婚のこと考えただけで一日中なんにも手がつかなくなるんだよね」 「……。……? ……????????????? せ、契さま? あの……結婚願望が、……? っていうか、結婚したい相手が、……えっ?」 「結婚っていうか……一生のパートナーになる人って言うの? そういう人に、どうプロポーズどうしようかな~って悩んでるんだよね」 「ちょっ……、ま、待ってください、……せ、契さま、貴方まだ17歳でしょう、そんな、はやくないですか、っていうか、……俺、……俺は? 待って俺捨てられました?」  契の言葉を聞いた瞬間、氷高は頭が真っ白になった。思わず振り向けば「赤信号」と言われて焦ってブレーキをかけるはめになる。  ――たしかに、氷高と契は恋人関係ではない。が、当然のように恋人同然のことをやってきた。お互いに好意を認め合っている、……ような気がする。  ……「気がする」だけか? 何もかも、俺の勘違い?  氷高はパニックになりかけて、今度は「青信号」と言われて急発進。 「……氷高、一個命令していい?」 「……はい」  音もなく走る車内の空気が、妙に重い。……重いと感じているのは氷高だけかもしれないが。  氷高はちらちらとバックミラーを見上げて契の表情を伺い見る。しかし、契はなぜか俯いていてバックミラーには後頭部しか映っていない。  まさか、ここで振られるのか? そんな最悪の展開が、氷高の脳裏に浮かぶ―― 「氷高、プロポーズ禁止ね」 「なっ、なんでェ!?」 「え? プロポーズしたい?」 「ちょっ、ええっ!? いやっ、……あ、貴方に捨てられたらそれは変わるかもしれませんよ、傷をいやしてくれる女性がいればそれはその人に……っていうか、なんですか、契さま、契さまは誰かと結婚しておいて俺は一生独身とか、そんな、そんな――」 「……? え? なんか勘違いしてる?」 「……ふぇ?」  バッサリ振るうえに一生恋愛禁止とか鬼畜かこの主人は! そう思った氷高に、契は思い切り噴き出してしまった。わけがわからず唖然とする氷高をよそに、ひとしきり笑った後、契はぎゅーっとシートに抱き着きながらつぶやく。 「プロポーズは、氷高からじゃなくて俺からって言ってんの」 「……?」 「いや……氷高ってロマンとか皆無だけど、なんかふっとプロポーズしてきそうじゃん? だから、先手を打っておかないとってな。氷高は、プロポーズするなよ。俺がするから」 「……誰に?」 「おまえ以外に誰がいるんだよ馬鹿か!!!!!!!!!!!!」 「……へ?」 「へ? って……あ、あれ、氷高泣いてる?」  盛大な勘違いのせいで不安がいっぱいになっていたせいか、それとも長年の恋心が報われる喜びか。嬉しさのあまりぼろぼろと涙をこぼし始めた氷高に、契はぎょっとしてしまう。  プロポーズの前に、そもそもまだ恋人でもないですよ。なんて、そんな野暮な言葉は出てこない。氷高は涙を手の甲で拭いながら、震える声で言う。 「はい、……待ってます」  まずは、今日の仕事で成功してこないと――そう柔らかい声で呟いた契の表情は、今まで見た彼の表情のなかで一番優しかったかもしれない。

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