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1-3:悪夢の始まり

 一日の授業が終わり、帰りのHR後。  私は職員室で一日の授業経過を見直し、翌日の準備などをしながら小テストの採点作業を行っていた。 コンコン  音と共に「失礼します」と声がかかり、顔を上げる。戸口に立つ頼りない様子の三咲は私を見つけ、ソロソロと近づいてきた。 「白鳥先生、あの……」 「あぁ、分かっている」  日中取り上げたスマホを取り出すべく、私は一番上の鍵のかかる引出を開け、そこでドキリとした。  大切な物がなくなっている。確かにここに入れてあるはずなのに、見当たらない。  途端、不安に心臓が痛くなってくる。秘密なのだ、あれだけは。もしも見られたら、私はこの学校の教師ではいられなくなる。  どこだ? どこかで落としたのか? いや、今日は持ち歩いていないはずだ。三咲のスマホを預かりここに入れた時には確かにあったのだ。 「先生?」 「!」  不安そうに三咲が声をかけてくる。動揺が抑えられないが、悟られるわけにもいかない。何より今探す事はできない。  私はスマホを手に取り、それを三咲に渡した。 「以後、気をつけるように」 「はい、本当にすみませんでした」 「分かればいいんだ」 「はい。……実は、少し落ち着かなくて。新しい生活で、慣れない事も多くて」  とても素直な様子でそう溢す三咲は、ソワソワとスマホを何度も撫でている。長い睫毛が震え、心細い様子が伝わってきて、私は肩をポンと叩いた。 「大丈夫だ、君ならこの学校でも十分にやっていける。不安があればいつでも相談に乗る。だから、ちゃんと顔を上げなさい」 「先生……」  顔が上がり、頼りなさげな表情に控えめだが愛らしい笑みが戻ってくる。親指姫らしい、花が綻ぶような慎ましくも可愛らしい表情に、どこかほっとしている。 「有り難うございます。先生、優しいんですね」 「え?」 「ボク、先生がいてくれてよかったです」  ニッコリと邪気のない笑みを浮かべた三咲は丁寧に一礼して出て行く。  私は……言われたことが嬉しくて耳が熱くなっていった。  鬼教官などと言われる私は生徒からは不人気だ。だから、『先生がいてくれてよかった』なんて言われるとは思ってもみなかった。  思わず口元が緩む。そうして机にむき直り、自分の置かれている状況を思いだして再び青くなった。  そうだ、喜んでばかりいられない。アレを探さなければ。  机の中を漁ってみるが、どこにもない。下に落ちていないか、カバンの中は? 他の引出に紛れてはいないか。  思い当たる限り探したが、見つける事ができない。落とし物の箱も見てみたが、なかった。  では、どこだろう。まったく覚えがない。妙な動悸がしてくる。 「どうかしましたか、白鳥先生」 「え?」  背後から声をかけられ、振り返る。そこには今年から同僚となった新任の教師が立っていた。  長い黒髪を後ろで緩く結わえた綺麗な顔立ちの人で、スラリと身長も高く、物静かで落ち着いている。何処かミステリアスな先生だ。 「緑川先生」 「先程から、何かお探しの様子」 「あぁ、いや……」 「よろしければ、お手伝い致しましょうか?」 「いえ、結構です!」  アレが見つかる事の方が問題だ。  咄嗟に言って、後悔する。こんな言い方をしては、いい印象はない。いつもこれで失敗する。取っ付きづらい、きつい言い方をしてしまう。  首を傾げる緑川先生に、私は頭を掻いた。 「あの、個人的な物ですので、お手をわずらわせるわけにはいきませんし。何処かに落としたのかもしれないので、少し探してきます。お気遣い頂きまして、有り難うございます」 「……そうですか」  あまり抑揚のない声がして、黒い瞳が伺うように一度細められた。なんだか覗かれているような落ち着かない気持ちになる。体の芯が、ザワザワする感じがした。  緑川先生はそのまま踵を返して行ってしまう。ほんの一瞬の視線は気のせいにも思える。そもそも彼とはまだ一ヶ月も接していない。まともに話したのもこれが初めてだ。  バカだ、気のせいだ。あまり話さないから変な勘ぐりをして、緑川先生にも失礼じゃないか。  私は立ち上がり、今日移動した全ての教室とルートを探しに向かう事にした。  結局、見つける事はできなかった。通った廊下、授業を行った教室、お手洗い。思い当たる限りを探したが、無駄だった。  家に忘れてきたに違いない! という楽観的な発想にはならなかった。なぜなら三咲のスマホを引出にしまった時には確かに見ているし、その時に|表(おもて)を一度撫でている。あれは間違いなく今日の出来事だ。  落胆しながら茜に染まる廊下を歩いている。  階段を降りようと踏み出した、まさにその時だった。 「白鳥先生」  声をかけられて、俯いていた顔を上げた。  そこには一人の生徒がいた。濃いめのブラウンの髪を跳ねさせた、ピンク色の大きな猫目が特徴的で、小柄で、少年らしい快活さが表情からも見える子だ。 「白鳥先生、今お時間いいですか?」 「私、か?」  思わず自らを指して問い直してしまった。名指しされているのだから他にありようもないのに。  少年、猫羽優斗はうんうんと頷いて人懐っこく近づいてくる。  私は首を傾げてしまう。何か悩みがあるのだろうか。それとも、他の事だろうか。  だが、何にしても今はそれどころではない。もう一度職員室を探し、一度家も調べて、無かったら夜にこっそりと探したい。アレはそれだけ危険な物なのだ。  だが猫羽はひょこひょこと近づいてきて腕を引く。その強引さに驚いてしまう。こんな風にされた事は教師生活で一度もない。 「先生、数学教えてください」 「え?」 「数学! オレ、もう引っかかりそうで。テストも難しいって聞いたから、今のうちに取り戻さないとまずくて」  確かに序盤で躓いて、そのまま苦手意識がついて成績が落ちるのは教師としても見過ごせない。生徒が分かるように授業をし、教えるのが教師の役割であり仕事だ。そこを怠るのは職務怠慢と言えるだろう。  だが今はそれどころではない。アレが他にもれたら、それこそ教師では……。 「先生の授業、分かりやすいって聞いたから探してたんだ。ねぇ、お願い」  見上げられ、腕を引かれ、こんな事を言われてどうして断れる。  結局私は階段を降りかけている足を上げて、猫羽に連れられるまま一年生の教室へと入っていった。  教室の中はガランとしている。当然と言えば当然だ、既に居残っているような時間ではない。クラブ活動や委員会活動をしているならまだしも、用事も無くこの時間まで残っている生徒はいない。  カバン一つもない教室は、整然と机が並ぶばかり。廊下に響く音すらもない。  猫羽は私を教室に押し込むと、不意に内側から鍵をかけた。 「どうして鍵をかける」 「その方が先生もいいと思うけれど」 「? どういう意味だ」 「オレ、知ってるんだよね。先生のひ・み・つ」  そう言われ、ドキッと心臓が跳ねた。さっき初めて会話をしたばかりの猫羽が私の秘密を知っている。  それとも、アレを拾ったのか? 持っているのか?  いや、例えそうだとしても私のものだと知りようはないはずだ。名前を書いた覚えはない。筆跡を知っているはずはない。猫羽のクラスの数学はもう一人の先生が担当だ。私じゃない。  言い訳をしている。違うと言っている。けれど否定しきれず口元を引きつらせ、冷たい汗を流しているのも事実だ。  鎌をかけられているに違いない。私は猫羽を睨み付けた。 「何のことだか……」 「『月宮の視線が私を見つめ、柔らかく微笑む。分かっている、気のせいだと。 それでもこの視線に意味を持たせたい私がいる。奥底で感じる熱を感じている私がいる。 声が私を呼び、指が遠慮がちに触れてくれたら。 近づき、寄り添って抱き合い、淡い睦言を奏でてくれたなら。 通り過ぎる一瞬、香るシャンプーの匂いに、私の鼓動は更に高鳴り……』」  驚き過ぎて息ができない。どうしてそれを知っている!  凝視してしまう。恐れに体が震える。それは間違いなく私が書いた物だ。私の妄想の産物だ。あの手帳に書いてあった、あまりに恥ずかしい私の……。 「月宮って、生徒会の月宮先輩だよね? 先生、あーいうタイプが好きなんだ♪」 「!!」  どうしてそこまで!  いや、この学校に月宮という生徒は一人だけだ。だが動揺しなければ否定できるはず。同姓のまったくの別人だと……。 「しかも学校でキスする妄想で興奮するシーンとか、すっごくベタ。先生って、職場でいけない事したいの?」 「どうして!」 「さーて、どうしてかな?」  ニヤニヤっと笑う猫羽を睨み付ける。  彼が手帳を持っている事は間違いがない。問題はこれが広まっていないかだ。もしも広まっていたら大変な事になる。教師が、例え表に出していないとしても生徒に恋情を持ち、こんな妄想まで書き綴っていただなんて知られたら……。 「返しなさい!」 「えーー」 「猫羽!」 「でも残念。オレは内容読んで知ってるだけで、実物持ってないんだよね~♪」 「なに!!」  どういう事だ! 既に違う誰かにまで知られているということか! 複数人に、あれが……あれが!  世界が真っ白になる。教師としての人生も終わった。思わず力が抜けて、床に崩れ落ちていく。  こんな事が学校に知られれば解雇は間違いない。生徒の父兄に知られればその先だって教師などできない。白鳥の家に知られれば縁を切られるだろう。  軽い足取りで、猫羽が近づいてくる。チェシャ猫らしい悪戯な光を瞳に宿したまま、私を見下ろしている。  バカにしていると腹を立てる反面、それでも生徒に手を上げる事だけはできない。そこまで見下げ果てた人間にはなりたくなかった。 「言えばいい、変態教師と。私はもう、この学校には……」 「あれ、勘違いしてる。オレ、バラすなんて言ってないよ?」 「……え?」  思わず呆けたような顔で猫羽を見た。間抜け面だったのだろう、彼は笑っている。  スッと近づいた猫羽の指が私の首元のスカーフを握る。そして掠めるように唇が触れた。 「なっ!」 「ねぇ、先生。いけないオフィスラブしない?」 「なに!」  突然の事に思考がついていかない。彼は何を言っているんだ。オフィスラブ? ここで? 「どうしてそうなる!」 「う~ん、面白そうだから?」 「おもし……」 「こうして見ると先生、意外と綺麗な顔してるんだね。最初はちょっと気乗りしなかったけど、これならアリかも」  いや、ないだろ!!  思わず自分でツッコんでしまったが、猫羽は止まらない。猫が獲物ににじり寄るように更に距離が詰まる。  そして今度はしっかりと唇が触れた。 「!」  柔らかく、悪戯に触れる唇。擽るように舐められて、緩んだ歯列を割って舌が口腔へと入り込んでくる。  こんな生々しいキスなど知らない。いや、親愛のキス以上のものを私は知らない。 「ふっ……」  歯の裏側を擽られて、ゾワッと何かが背を走った。この感覚はなんなんだ、力が抜ける。頭の中が霞んでくる。  舌が絡まり、逃げても捕まって、また絡まる。徐々に頭の芯が痺れたように働かなくなっていく。こんな事はいけない。そう思う気持ちさえ薄れていく。 「はぁ……」  息苦しいキスが終わって、猫羽が離れていく。それを呆けたように私は見ていた。  悪戯なピンク色の瞳が、とても楽しげに笑っている。 「うん、あり。先生、色っぽい顔してるよ」 「……え?」 「分からないの? 今すぐ犯して下さいって感じの、誘う様な顔をしてる」  そんな事はない!  思うのに、体は震えている。痺れた頭ではすぐに判断がつかない。  反論するより前に、猫羽の手が首元のスカーフを抜き取った。指が、シャツのボタンを一つ外す。それにようやく体が動いた。 「ダメだ!」  思わず手を払い、体を離して立ち上がる。キス一つでぼーっとしたまま生徒と、こんな……。  だが猫羽は途端に不機嫌な顔をした。 「それじゃ、先生の恥ずかしい秘密みんなにバラしちゃうから」 「皆……?」 「SNSの拡散力って、すっごいんだからね」 「それは!!」  焦った。機械に疎く未だスマホすらも使えないガラケーの私でも、それらがどれほどの情報力を持っているかはニュースなどで知っている。嘘か本当かも分からないまま、ただ内容のセンセーショナルさだけで拡散していく。  猫羽は胸ポケットからスマホを取り出して何やらしている。怖くなって、私は飛びついてそれを取り上げようとした。  だが、猫羽の方が早い。猫らしい素早さでパッと身を翻されて、私は机にぶつかった。 「先生、まだ分からないのかな? 秘密を知られた以上、先生に拒否権ないよ?」 「っ!」 「先生、オレと遊んでくれたら黙っていてあげる。あっ、強請(ゆす)ったりはしないから安心して。オレは先生と、仲良くしたいんだよ?」  ニヤニヤと笑ったチェシャ猫の手が、私の尻を後ろから掴む。その強引さに、私の認識していない何かがゾクゾクと痺れた気がした。

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