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「じゃあ……逃げようという意思は、ない。……でも、逃げたいと思ったことはないですか」
「……何が違うの」
「たとえば……そいつから離れて違う人と添い遂げたいって思ったことは。無理だとわかっていたとしても」
「……え、」
波折が固まる。
何かに迷っているような瞳。そんな表情に沙良は焦燥を覚える。言おうか言わないか、言っていいのか言ってはいけないのか……きっと、そういったことを考えているのだろう。教えて波折先輩、そんな気持ちを込めて沙良が波折の手を握れば、彼はきゅ、と唇を噛んだ。そして、ぽふ、と沙良の胸に飛び込んでくる。
「……俺、自分の周りにいる人がみんな好きだよ。学校の人達、みんな。特に……沙良と慧太はほんとうに俺を愛してくれている。嬉しいんだ、俺、ほんとうに嬉しい。ずっと、一緒にいたい。……いたいよ」
「先輩……」
沙良はぎゅっと波折を抱きしめた。波折が顔を自分の胸元にうずめてくるのが愛おしくて、沙良は彼のつむじに頬ずりをする。自分と同じシャンプーの匂い。彼のさらさらふわふわとした髪の毛に触れて、もっと愛おしくなった。
「……やっぱり、「ご主人様」から離れましょう。俺が先輩の手を引きますから」
「……むり」
「だめです。波折先輩……先輩は、「ご主人様」と一緒にいたら幸せになれない」
「……いいよ。別にみんなの言う「幸せ」なんていらない。いいんだ……ご主人様に気持ちいいことされていれば、それが俺の幸せ」
「俺は先輩に本当の意味で幸せになって欲しいんです……! 俺が……俺が、先輩のことを幸せにしますから……!」
「本当に……無理なんだって……俺には、無理……」
「先輩……!」
沙良は、ぐ、と波折の顔をもちあげると、唇を奪った。波折がびく、と身体を震わせる。沙良が波折の頭を掴んで、手を握って――強く、唇を押し当ててやれば、次第にこわばっていた波折の身体の力が抜けてゆく。波折は目を閉じて、ゆっくりと沙良に身を委ねていくと……ぽろりと涙をこぼした。
「愛しています……先輩。あなたを救いたい。俺の手をとって」
「……沙良……だめ……」
「先輩……」
「んっ……」
何度も、キスをした。
なぜ波折が「ご主人様」から逃げられないのかは、わからない。それでも、なんとかして救いたい。どうか、その想いよ伝わって。あなたの意思で、この手をとって。
沙良のキスに、波折の体温が上昇してゆく。沙良が自分のことを本当に愛してくれていると、それはしっかり感じることができた。それが嬉しかった。しっかりと身体を包まれて、そしてキスをされていると、沙良の強い想いがびりびりと伝わってくる。
――でも。でも、俺は……
――ガタン。
そのとき、物音がした。ぎょっとして沙良が顔をあげて音のした方をみやれば……そこには、驚いた顔をして立っている洋之がいた。
「……っ、」
まさか、今のキスを見られていただろうか……沙良と波折は固まる。呆然とした様子でこちらをみている洋之は、明らかに何かをみてしまった、といった様子。沙良が苦笑いをしてみれば……彼も同じく苦笑いを返してくれた。
「……そういう関係だったかー、ごめんな、わからなかった」
「やっ……やっぱり見て……」
やばい。咄嗟に沙良は思う。この家の長男である自分が同性と恋愛をするなんて、猛反発をくらうに決まっている。そんな風に反対されるところを波折がみたらどう思うだろう……それを考えると、気が気ではなかった。
「……」
洋之がじっと二人をみつめる。唇は離しているものの、抱き合っている二人。沙良にすっかり身体を預けている波折の体勢は、友達や先輩で済ませられるような格好じゃない。沙良がドキドキとしていると……やがて、洋之がふっと笑う。
「沙良ー、ちょーっとだけこっちこい。ちょーっとだけだ、ちょーっとだけ」
「は……はい」
彼は一体何を考えているのだろう……沙良が不安に思いながら洋之の元へ寄っていく。残された波折に洋之は「すぐ返すから、待っててな!」と声をかけると、ずるずると沙良を引っ張っていってしまった。
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