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第3話

「――……、ん」 僕の呼吸が落ち着いたのを見計らってか、佐伯さんが接吻してきました。ぬかるんだ唇で唇を優しく撫でられると、胸に甘い痺れが走り、次いで暖かな空気が満ちていくような感覚になりました。 佐伯さんの唇が離れ、僕たちは見つめ合い、静かに笑い合いました。……幸せで幸せで、たまらない。空襲の大火に飲まれた母親の躯を目の当たりにした頃、まっさらな街を地平線に沈みゆく真っ赤な夕日を眺め、涙を流していた頃、そして生きるために色んな男性と寝ていた頃には想像もつかないほど、今の僕は満ち足りている。これ以上、望むものは何もない。ぼんやりとする頭で、けれどもはっきりとそう思いました。 「……佐伯さん」 掠れた声でうっとりと名前を呼び、うっすらと髭が生えた佐伯さんの頬に自らの頬を擦り合わせようとした時でした。 「統」 耳元で不機嫌そうな佐伯さんの声が聞こえ、彼の目を見ました。 「はい?」 「お前、いい加減その『佐伯さん』っていうのやめろ」 「……え?」 「苗字で呼ばれると、他人のようで嫌だ」 ……初めて、そんなことを言われました。僕が依然ぽかんとしていると、子供っぽく口をへの字にした佐伯さんが、僕の両頬を引っ張ってきました。 「……っ、いひゃい……いひゃいですっ!」 「俺とお前の関係は何だ?」 佐伯さんはすぐに指を離してくれましたが、変わらずむすっとした表情で訊ねてこられました。そこでようやくはっとし、顔がぼうっと熱くなります。 「……えっ……と……」 黙って僕をじっと見つめてくる佐伯さんの切れ長の目が、言葉を促すように光っていて、ますます顔が火照ってきました。それに、何だか胸がどきどきします。耐えきれず目を伏せ、僕はぼそりと答えました。 「……夫婦、です」 いえ、正確には夫婦ではありません。男同士の僕たちは法律上、決してそうはなれません。けれども、僕たちの関係を言葉にするならば、それが最適でした。

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