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第5話

 男は束の間瞠目したけれどすぐに唇を引き締め、そばに車を待たせてある、と俺を担ぎ上げるように支え立たせてくれた。男の肩を掴む腕に力を込めると小刻みに震えてしまい何度目かの舌打ちが漏れる。左足は言うことを聞かず爪先が地面を擦った。男の腕が腰に回り身体を固定されると、ほぼ全体重を男が支え、そのおかげで左足の負担が減り痛みも和らいで安堵の息が漏れた。男の横顔を盗み見れば涼しい顔でゆっくりと歩き出し、案内された先には黒塗りの立派な車が停められていた。一目見ただけで、車に詳しくない俺でも分かるほど有名な車だ。メルセデス・ベンツ。この男に出会えたことは幸運だった。この車といい着用しているスーツといい、この男は正真正銘の金持ちだろう。後部座席の扉の前には六十歳代くらいの、まさしく「執事」といった風貌の男まで待ち構えている。そこらの金持ちとは格が違うだろうことは想像に容易い。こうやって安易に俺を拾い、暫く面倒を見るくらい造作もないだろう。己の強運さに口笛でも吹きたい気分だ。 「どうぞ、獅子雄様」  執事風の男は扉を開けて恭しく頭を下げる。俺に一瞥をくれると柔和に微笑んだ。それに軽い会釈で返す。 「乗れ」  「獅子雄」と呼ばれた男がそう呟くと同時に視界が歪み、身体を押されたことに気付いたときには既に質のいい革のシートの上に上半身を滑らせていた。最悪だ、この男、俺を投げやがった。怪我人なのに。寸でのところで、左脚はどうにか死守し、慌てて体制を整えシートの奥の方へ座り直す。俺の隣に「獅子雄」がどかりと乱暴に座った。 (親切なのか、そうじゃないのか)  「獅子雄」は終始無表情で、執事風の男が丁寧に後部座席の扉を閉め車体を一周して運転席に乗り込むと、出しますね、と一言断り車はゆっくりと発進した。外はもうすっかり明るくなっていて、頭上には眩しい光を放つ白い空が広がっていた。この車の、中と外。俺たちと、それ以外。まるで別世界にいるようだ。 「名前は」 「え?」 「………なまえ」  唐突に声をかけられそちらを振り向けば、獅子雄が煙草を咥えてそれに火を付けるところだった。 「あっ、窓………」  獅子雄は俺を一瞥する。この目は、睨んでいるのだろうか。 「………ごめん。窓開けて、吸って」  獅子雄は視線を前に戻すと黙って窓を開け、そこから煙を吐き出した。 「ありがとう」  別に煙草は嫌いじゃないけれど、狭い車内で座れると妙に苦しく感じてしまう。 「………名前は」 「ああ、うん。我妻椿(あがつまつばき)」  獅子雄は長く息を吐く。その横顔は疲労の色が窺えた。 「あんたは?」 「……備前獅子雄(びぜんししお)」  獅子雄は静かにそう答えた。備前獅子雄。その姓に聞き覚えがあった。というより、知らない人間の方が少ないくらいだ。リゾートホテルやレストラン、家具やファッションブランド、それ以外にも把握しきれないほど多岐に渡り企業を乱立させている近年急成長を遂げた大企業。予想通り正真正銘、疑う余地のない金持ちだ。俺の父親が経営している会社なんて備前とは比べものにもならない。 「その身体、誰にやられた」  訊かれ、真っ先に父親の顔が浮かんだ。けれど違う。この身体をやったのは、俺を()ねたあのタヌキ腹の男だ。そうだ、あのタヌキ男はどうなったのだろう。俺には謝罪のひとつもないけれど、もしかして警察が駆け付ける前に逃走でもしたのだろうか。いや、その可能性は極めて低いだろう。轢き逃げなら警察が事情聴取にでも来るはずだ。しかし入院中、俺を訪ねてきたのはあの熱血教師以外にいなかった。しばらく考えて、諦めた。どうせ父親がカネでも積んで上手いこと片付けたのだろう。それが一番簡単で確実だ。 「おい」 「あ、ごめん」  怒気を孕んだ声を聞き反射的に謝罪する。いつまでも答えない俺に腹を立てたのだろう、気の短い男だ。 「事故だよ。車に()ねられて左半身ずたずた。リハビリして昨日退院したばっかり」 「……その頬は」  自らの左頬をさすると父親に罵倒された言葉を思い出した。今、俺の顔はどうなっているだろう。 「……顔は、」口の中が、ざらざらする。「顔は、親父に」  獅子雄は煙草の煙を吐き出して、そうか、と呟いた。 「………この車、どこまで行く気?」  走り始めて既に二十分ほどが経過している。もしや山かどこかに捨てられるのだろうか。そんなのはまっぴらごめんだ。せめて街中にしてくれ。  一抹の不安が胸を過ぎった頃「もうすぐですよ」と執事が答えた。ちらりと目を寄越せばバックミラー越しに視線がかち合い、その優し気な瞳だけで微笑まれた。執事は白髪の多い髪を綺麗に後ろに撫で付けて、一切の乱れも感じさせない。獅子雄のだらしなさとは正反対だ。じっと見つめていると、どうしました、と声を掛けられたから俺は視線を外して再び外を眺めた。 「坊っちゃんは、どのようなお食事がお好みですか」  執事のその言葉が、車内にぽっかりと浮かぶ。獅子雄に訊いているのか、と束の間逡巡する。けれどそうでないことはすぐに分かった。先ほど「獅子雄様」と名前で呼ばれていたことを思い出したから。車内に、人間は三人。もう一度バックミラーを見れば執事と目が合い、もう一度微笑まれた。 「坊っちゃん、お食事は?」  坊っちゃん、俺のことだ。 「別に。特に嫌いなものもないけど」  とりあえず答える。そうですか、と執事が相槌を返す。自然と溜息が漏れて、俺はシートに深く背を預けた。  山道から徐々に目の前が拓けて、首を伸ばせば大きな洋風の屋敷が目に入った。見上げるほどの外門は美しく磨かれていて、脇の花壇には色とりどりの薔薇が咲いている。まるで映画のセットのようだ。外門から屋敷の入口までに辿り着くにも、まだ結構な距離がある。まさかこれが自宅とでも言う気だろうか。 「着きましたよ」  堪らず、大きな口を開けて呆けてしまった。まさか本当にここに住んでいるなんて。  外門は遠隔操作がなされているのか、車が目の前までくると自動で開いた。車は門をくぐり抜け、屋敷の入り口の前で停車した。 「まじかよ……」 「気に入らないか」  唖然としている俺の横で、獅子雄が言う。気に入るとか入らないとか、そういう問題じゃない。そもそも俺の家ではないのだし。ただ目の前の光景があまりに圧巻で、こんな豪邸に住んでいる人が実在するのが信じられないだけで。広大な敷地、まるで城のような屋敷。余程の大家族でない限り、どうやったって全ての部屋を使い切ることはできないだろう。まるで土地の無駄遣いだ。金を持つと恐ろしい。 「どうぞ、獅子雄様、坊っちゃん」  執事が後部座席の扉を開ける。 「来い」  左足の痛みと、目の前の現実に委縮して身動きが取れずにいる俺に手が差し出された。恐る恐るその手を取れば強い力で一気に身体が引き上げられて、再び獅子雄に抱かれるようにして車を降りた。そして聳え立つ豪奢な建物を見上げる。 「………本当にここに住んでるの?」 「しつこい」  細工の細かい扉を見つめていると、その分厚く重厚感のある扉が内側からゆっくりと開かれた。

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