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第6話

 自宅ですら自動扉なのかと疑えば、わずかに開いた隙間からメイド服を着た女がふたり顔を覗かせた。どうやらこのふたりが扉を押し開けてくれたようだった。 「まあまあまあ!」  ベージュの髪を黒いリボンでひとつにまとめたメイドが声を上げ、俺に近付く。ほんの数センチまでの距離に来て、獅子雄が支えてくれているのとは反対側に回り、立っているのも辛い俺に手を貸してくれた。 「お部屋のご用意が出来ていますわ。いえ、それよりまずは手当てかしら? お風呂もご準備しております。ああでもその前に、お食事の方がよろしいかしら?」  ベージュ髪のメイドは俺や獅子雄の返事を待つより先に、ああでもない、こうでもないとひとりで首を傾げている。何だと言うのだ、いったい。 「あらあら、坊っちゃん、お帰りなさいませ。お身体の具合はいかがですの?」  その後ろから、今度は黒髪をきつく巻いたメイドがやってくる。どれになんと返答したらいいのか分からず、脳内はぐるぐる混乱した。ここは俺の家ではないし、ここにいる全員とは今日が初対面のはずなのに。何故このメイドたちは、それがさも当然のように俺を迎え入れるのか。突然の目まぐるしさに、獅子雄の服を握っている手の力が無意識に強まった。 「おい」  きゃあきゃあと活気のよかったメイドが、一瞬でぴたりと黙る。声の主は獅子雄だ。 「とりあえず、俺の部屋に連れてこい。怪我の手当と、食事と着替えを用意したら下がれ」  そう言うと、獅子雄は自身の上着ごと俺をメイドふたりに預け、自分はネクタイを緩めながら足早に屋敷の廊下を歩いて行ってしまった。ふたりのメイドに両脇を抱えられ、俺は呆然としている。メイドは黙って顔を見合わせていた。 「あ、あの――」 「時永さんから“獅子雄様が男の子を拾った”って連絡が来たとき、とても驚いたんですのよ」  俺の言葉を遮って、ベージュ髪のメイドがそう言った。時永、と聞き覚えのない名を出され、疑問符を浮かべながら眉を顰める。 「えっと………ごめん、時永って………」 「あら、獅子雄様お付きの執事ですわ。先ほどまでご一緒でしたでしょう?」  黒髪のメイドがそう説明し、ああ、と相槌を返した。あの白髪で身なりの正しい年配の男だとすぐに合点がいく。 「私たち、張り切って坊っちゃんのお部屋をご用意いたしましたのよ」  ベージュ髪のメイドが言う。 「その、坊っちゃんって言うの何なの」  訊いてみてもその質問に対しての返答はない。 「このお屋敷には、なかなか人が寄り付きませんの。だから新しいお顔が見られると思って、わくわくしていたんですのよ」  黒髪メイドは、うふふと笑う。 「こんなに可愛らしい方がいらっしゃるなんて、とても嬉しいですわ。ごゆっくりお過ごし下さいね」  俺がここへ来るまでの間にどうやらふたりきりで盛り上がっていたらしく、今もなお俺を間に挟みながら楽しそうに肩を揺らしていた。しばらく談笑が続く中、背後から静かに、こつこつ、と硬い踵を鳴らす音が聞こえて振り返る。 「お喋りも結構ですが、貴女たち。しっかりお仕事もして下さいね」  そこには先ほど同様柔和に微笑む時永が気配もなく立っていて、メイドふたりは素直に「はい」と返事をすると俺を支え直し、ゆっくりと歩き出した。 「あら、そういえば自己紹介がまだでしたわ。(わたくし)はエティと申します。仲良くしてくださいね」  黒髪のメイド、エティが小さく頭を下げる。 「(わたくし)はマリアです。よろしくお願い致します」  ベージュ髪のメイド、マリアが小動物のような瞳を輝かせた。黒髪がエティ、ベージュがマリア。頭の中で二度繰り返した。 「さ、坊っちゃん、獅子雄様のお部屋にご案内致しますわ」  マリアが言う。 「坊っちゃんなんて呼ばなくていいよ。………厄介者の他人だから」  自嘲気味な笑みが漏れた。 「そのような寂しいことはおっしゃらないで、ね、坊っちゃん」  エティが優しく肩を撫で、俺ははいもいいえもなく黙りこくって、ふたりに案内されるがままに歩き続けた。  案内された獅子雄の部屋は馬鹿みたいに広かった。どうぞどうぞ、入れ入れとメイドに半ば無理やり押し込まれ、役目を終えたふたりはすぐさま部屋を後にして、それからはただの一言だって話さない獅子雄とこの広い空間でふたりきりだ。地獄のような沈黙。後で怪我の具合を診てくれると言っていた時永は、まだこちらへ来る気配はない。  俺は部屋のほぼ中央にある黒革のソファに座っていて、獅子雄は恐らく仕事用だと思われるデスクに向かってパソコンと睨めっこしている。無機質で冷たく硬そうなデスクは、恐ろしいほど獅子雄によく似合っていた。獅子雄の部屋はキングサイズのベッドと仕事用のデスク、俺の目の前にあるガラスのローテーブルと今座っている黒革のソファ、それに大迫力の大型テレビ。広い部屋の割りに物が少なくて、少しだけ寒気と寂しさを感じる部屋だ。  無言でデスクに向かう獅子雄の横顔を、何とはなしにまじまじと見つめる。初めて見たときも思ったけれど、綺麗な顔をしている。妙に顔色悪いし人殺しみたいな鋭い目つきだけど、それでも美しいことに変わりはない。  どうして俺なんかに手を差し伸べたのだろうか。ふと考える。親切にはとても見えない。俺に興味があるとも思えない。眉ひとつ動かないその表情は、何を考えているのか全く読み取れない。簡単にのこのこついて来てしまって本当に良かったのだろうか。一抹の不安が過ぎる。いや、しかしそれしかなかった。この足ではとても動けない。カネもきっとすぐに底をついていただろう。そうだ、選択肢は獅子雄について行くより他になかったのだから。だから俺は、考えなければならない。これからのことを。この男を上手く利用して生き延びる術を見つけなければならない。野垂れ死んで堪るか。そう強く自分に言い聞かせる。野垂れ死んで堪るか野垂れ死んで堪るか野垂れ死んで堪るか。野垂れ死んで、堪るか。  途端に(それはとても急速に)脳が活動をやめて瞼が重くなる。なんだ、急に。考えて、思い至る。そうだ、そういえば昨日は一睡も出来ていなかった。そして睡魔は瞬く間に俺を襲った。  考えなければ、これからのこと。  そこで意識は途切れて、まぶたが完全に落ちると同時に俺の身体は傾き、ソファに沈み込んだ。      *       穏やかな波間に、ゆらゆらと揺れていた。緩やかで温かい波に、四肢を投げ出して全身を預けたくなるような。凪いだ海、母猫のお腹みたいに柔らかで気持ちの良い波に俺は弛緩した手足を預けた。するとその瞬間、波間に揺られていた身体がぐにゃりと大きく歪む。  まずい、黒くて巨大な渦に飲まれる。――溺れる。 「――溺れる!」  咄嗟に手を伸ばし、指先に触れたものに必死で掴みかかる。生きなければ、そう強く念じると同時に目が覚めた。 「え?」  目の前には、獅子雄の顔。 「は?」  夢。 「手を離せ、息ができん」  表情を変えず、獅子雄が言う。手を離せ、俺に言っているのか。慌てて意識を呼び覚まし自身の状況を確認すれば、俺の両腕は何故か獅子雄の首にしっかりと巻き付いていた。 「あ、ごめん」  まだ心臓が激しく脈打っている。額には汗が滲んだ。置かれている状況に混乱を隠せない。上手く状況が飲み込めなくて、俺は獅子雄の首に巻き付いている両腕を放せずにいる。 「…………………」  ソファで寝ていた。それは確かだ。けれど俺は今、泳げそうなほど大きなベッドの上にいて、その俺の両脇に獅子雄が腕をつき覆い被さっている。 「ちょっと待って」  俺は、獅子雄の首に抱き着いたままだ。この状況はおかしい。 「おっさん、あんた何してんだ」  目の前のこの男に特別な感情なんてこれっぽちも抱いていないけれど、なまじ顔がいいだけに至近距離で見る獅子雄は男の俺でもドキドキしてしまう。そんな俺を知ってか知らずか獅子雄は数秒考え込むように黙り込んだ後、わざとらしく盛大な溜め息を吐いてみせた。 「おまえがソファで寝てたから、ここへ運んでやっただけだろうが」  そしてベッドに横たえようとしたところ、突然「溺れる」と叫び獅子雄の首に抱きついて、その拍子に体勢を崩して俺を押し倒す形になってしまった。そういうことらしい。確かに見てみれば俺に被さっていたのは上半身だけで、下半身はベッドの外に投げ出されている。 「ごめん」  素早く獅子雄の首から手を離す。 「俺、今すごい恥ずかしい勘違いしてるよな」  顔に熱が集まるのがわかる。突拍子のない勘違い。男同士なのに。有り得ない、有り得る訳がない。獅子雄は呆れながらワイシャツの襟を正し、そんなもん知るかと呟いて何故かそのまま俺の隣に横たわった。 「え、何なの」  まさかここで寝るつもりだろうか。確かにベッドはひとつしかないけれど。まさか隣で一緒に寝るのか、そんな筈はないだろう。しかし獅子雄は、既に目を閉じて身体を起こす気配はなさそうだ。 「仮眠する。十五分後に起こせ」 「は?」  きょろきょろと部屋中を見渡しても時計は見当たらないし他に時間のわかるものもない。携帯電話は捨ててしまったし腕時計もしていない俺は、十五分後がいつかもわからない。 「……………」  勝手に寝た獅子雄が悪い。なんとか自分を正当化して、俺も柔らかなベッドに深く身を沈めた。ふと見れば、少し離れたところに獅子雄の横顔。男ふたりで寝ても、充分余裕のある広さだ。俺と獅子雄の間は、人ひとり分離れている。 「眩し……」  獅子雄と反対側へ首を捻り、窓から覗く日差しに目をやる。俺の身長よりももっとずっと大きな窓から、太陽が燦々と照り付けていた。時刻は八時頃だろうか。本来なら、学校に行っている時間だ。しかしきっと既にあの父親が退学願いでも休学願いでも何でも出してしまっているだろう。事故とか何とか、それなりの理由をつけて。  結局、社会なんて権力を持った大人の都合のいい様に出来ているのだ。何も持っていない子供の俺には、なんて息苦しい世界。 「………………」  獅子雄は静かな寝息を立てている。規則的で、綺麗な寝息だ。その静かな横顔を再び見つめる。 「………獅子雄、」  ぽつりと、呟いてみる。 「………なんだ」  まさか返ってくるとは思わなかった返事があり、ぎょっとして肩が跳ねた。起きていたのか。しかしそれでも獅子雄は依然、目を閉じたままだ。獅子雄の整った顔はぴくりとも動かない。よく出来た石膏像みたい。  きっとこの男も、上手いこと生きてきたのだろう。地位も名誉もカネもある。俺みたいに路上に投げ出され、野垂れ死にしそうになることも、きっと今までもこれからもないのだろう。 (困ることなんてあるはずない。こんなにも満たされた生活をしているのだから) 「獅子雄、」  満たされたい。 「起きてるだろ」  この空洞しかない抜け殻を、満たして欲しい。強く生きられる力が欲しい。獅子雄の持っているものと同じものが必要だ。地位と名誉と、カネだ。あの父親を壊してやれるだけの力が欲しい。俺を蝕んでいる汚いものを壊すだけの力が欲しい。その為には、この壊れにくい石膏像のような男が必要だ。獅子雄の力が、必要だ。 「獅子雄」  俺は上半身を起こし、獅子雄に手を伸ばして肩を揺さぶる。獅子雄は眉間に深い皺を寄せながら、目を開けた。 「俺を傍において」  言葉は選んだつもりだ。だけどきっと迷惑そうな顔をされるだろう。もしかすると舌打ちが飛び出すかも知れない。それでもいい。それでも獅子雄の力が欲しい。獅子雄は薄く目を開け俺を一瞥し、再び瞼を閉じて小さなため息を漏らした。 「………好きにしろ」  部屋は余ってる、そう続けて獅子雄は再び目を閉じた。 「え…………」  今度は俺が眉間に皺を寄せる番だ。こんなにもあっさりと上手くいってしまうなんて。 「本当にいいのか」  あまりにも呆気なくて、口がぽかんと開いてしまう。すんなりと事が運びすぎている。そんなものだろうか。 「おまえが決めろ」  俺は呆けたままベッドの上で固まっている。頭がくらくらした。獅子雄は腕時計を確認すると、身体を起こし身なりを整えた。そしてネクタイとジャケットを腕にかけ鞄を持つと、獅子雄はドアノブに手をかけた。どうやら出かけてしまうらしい。 「ちょっと待って」  思わず呼び止める。獅子雄は黙って振り返る。どうしてこの男は俺を受け入れるのだろうか。他人を簡単に自宅に置いてしまえるなんておかしい。そもそも俺を拾ったのだって―― 「…………………」  同情。  その言葉がぽっかりと脳内に浮かぶ。同情された。家もなく、親に捨てられ動けずに蹲る子供の俺に、同情したのだ。きっと、いや絶対にそうに違いない。そうでなければこの状況はあまりに現実離れしすぎている。ふつふつと、静かに血が湧いた。頭に血が昇る。同情。そんなものに縋るしか生きていく術がない。それはそうだ。この男の手を取った瞬間から分かっていたことだ。それなのに。 「仕事だ。お前は足が治るまで動くな」  そう言い残し、獅子雄は出て行ってしまった。 (同情…………)  腹が立った。どうしようもなく腹が立って、そして悲しくなった。それは俺が期待していたからだ。同情を「優しさ」と勘違いして期待したからだ。両親に捨てられて尚、他人の優しさに期待してしまう自分が、どうしようもなく情けなくて不憫で、悲しかった。

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