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第7話
部屋を出た獅子雄と入れ違いで時永がやって来た。その手には救急箱を携えて。
「遅くなって申し訳ありません、坊っちゃん」
浅く頭を下げ、時永は俺の座るベッドへ寄る。
「おや、どうされました?」
「………え、何が」
突然何なのだと首を傾げれば、時永は意味ありげに微笑んだ。まるで孫を見るような優しい目をしている。
「坊っちゃん、恐いお顔をされてますよ」
ベッドに置かれた救急箱が開かれると、消毒薬の匂いが鼻腔を刺激した。一体俺がどんな顔をしているというのだろう。眉間に皺を寄せているのには自覚があるけれど、恐い顔と言われるほどだろうか。時永は俺の足元に跪き救急箱から湿布と包帯を取り出すと、足を、と促し、俺は少しだけ躊躇って左足だけをベッドから出した。
「………獅子雄って、どんな人」
小さな声で訊いてみる。時永の耳に届いただろうか。時永は、痛かったらすみません、と丁寧に断り俺の足に慎重に触れた。
「どんな、とは?」
「……え…いや普通にどんな奴かなって………」
質問を質問で返されるとは思わず返答に困る。時永は、ふふふと遠慮がちに笑った。
「とてもお優しい方ですよ」
「……………」
ぴくりと頬が引き攣った。優しい。それは俺を助けたことに関しても、優しいと言えるのだろうか。同情と優しさは同義ではない。
時永は静かに黙々と包帯を巻く。俺は何も言わずにそれを眺めていた。足首はしっかりと固定されて、痛みも和らぎ随分と楽になった。
「さあ、できましたよ」
時永は立ち上がり、救急箱をぱたんと閉める。
「………ありがとう」
俺はベッドに腰かけながら左足をぷらぷらと揺らした。それでも痛くない。怪我の手当てには慣れているようだ。
「坊っちゃん」
呼ばれて顔を上げれば、時永は真面目な表情で俺と視線をあわせた。
「なに」
「人間というのは、一朝一夕 で全てを理解できるものではありません。それは人に対しても、環境や状況に対しても。あなたが何を考えて、思い悩んでいるのか、それはあなたにしか分かりません。誰のどんなことも、話さなければ分かりません」
救急箱を抱える時永の指はまるで枯れた小枝みたいだ。そんなことを思った。時永は尚も真剣な眼差しで俺を見据える。
「あなたが知りたいと思うのなら、訊いてみるのか一番手っ取り早く、そして確実です。………まあ、あなたもたくさんのことがありすぎて困惑してるでしょうから、まずはゆっくり休んで、それからじっくり考えてみて下さい」
そう言うと時永は、先程と同じ孫を見るかのような柔らかな瞳をして微笑んだ。
「………わかった、よく考えてみる」
時永が何を言わんとしているのか、実のところよく理解はしていない。よく理解はしていないけれど、よく考えてみようと思った。きっと彼の言う通りだ。ゆっくり休むべきなのだ。
「それでは私はこれで。何か入用でしたら、マリアかエティをお呼び下さい」
頷くと、時永は軽く会釈をして部屋を出ていった。
獅子雄はどんな人間なのか、何故俺を助けたのか。ひとりになったベッドの上で考える。考える考える、考える。わからない、わかる筈もない。わからないから時永に聞いたというのに、結局答えは得られなかった。
(……………………)
―――分からない。俺に手を差し伸べてくれたのは確かなのに、獅子雄はそれについて一言も話してくれないし、あまりにも飄々としすぎて掴みどころに欠ける。
「……駄目だ、やめよう」
空腹と疲労で脳が考えるのを放棄したところで、部屋の扉が叩かれた。扉は少しだけ開けられて、その隙間からそろりとエティが覗く。
「あら、起きてらっしゃったのですか。少しはお休みになれました?」
俺が起きているのを確認すると、扉は大きく開かれエティが入ってくる。その手にはベーグルサンドと紅茶、フレッシュジュースが載ったトレイを持っていた。
「食欲はありますか?」
エティはベッド脇のチェストを引き寄せ、そこに食事の用意をする。丁度いいところに、ぐう、と腹の虫が鳴いた。昨日からろくな食事をしていない。空腹に負けて俺は勢いよく身を震わせた。
「ありがとう。すごく腹が減ってた………いただきます」
「あらあら、作った甲斐がありましたわ。ごゆっくりお召し上がりください」
エティは食事にがっつく俺を嬉しそうに眺めた後、華奢なティーカップに熱い紅茶を注いでくれた。生ハムとクリームチーズ、レタスとたまご、桃が挟んであるものまで、その種類は多彩だった。これを見ず知らずの俺に作ってくれたと言うのだから、素直に喜びを感じる。
「エティはさ……」
「はい」
芳ばしいベーグルを咀嚼して、飲み込む。エティは言葉の続きを待っている。
「獅子雄のこと、どういう人間だと思ってる?」
突然の質問に、エティはきょとんと大きな瞳を丸くする。
「そうですねえ……ふふ、改めて訊ねられると難しいですね………ううん、月並みな回答になってしまいますが、お優しい方だと思いますわ。口数は少ないですけど、私たち使用人にも気を遣って下さいますし」
「ふぅん……」
優しさ、ね。優しさってなんだ。
「私 は、先代とはあまり接点がありませんでしたが、それでも獅子雄様と同じお優しい方だと記憶しています。違うところと言えば先代は表情豊かだったことくらいで、お優しいところはしっかりと獅子雄様に受け継がれたようです」
ふうん、と相槌を打つ。先代というのは前社長のことだろうか。備前グループが全国区で大きく拡大したのはそう昔のことではない。
「先代って、獅子雄のじいさん?」
エティは俺を見て、いいえ、と首を傾げる。
「いいえ? 先代は獅子雄様のお父様ですわ」
その言葉に、ティーカップを掴んだ俺の手は止まる。
「え、じゃあ獅子雄は………」
「備前グループの、代表取締役社長ですわ」
「………そう、なんだ……………」
だとすると会社をここまで大きくしたのは獅子雄だろうか。そうじゃないにしてもこの規模を任せるには獅子雄はまだ若すぎる。十五の俺が言うのがおかしいとこは分かっているけれど、それにしたってこれほどの大企業、二十代で代表取締役社長というのは世間的に見てあまりにも異例だということは分かる。それで会社が成り立っているのだから、今までどんな教育を受けて育ってきたのか想像もできない。
「あの若さでしっかりと会社を支えているのですから、頼もしい方ですわ」
エティはグラスにフレッシュジュースを注ぎながら、誇らしそうにそう話した。それはそうだろう。これまでの獅子雄の努力は計り知れないものかも知れない。残りのベーグルサンドをフレッシュジュースで流し込み、ご馳走様と手を合わせる。
「ありがとう、美味しかった」
「坊っちゃんは、獅子雄様をどんな方だと思ったのですか」
「………わかんないから聞いたんだよ」
エティは空 になった食器を手際よく片付けた。
「そうですか、では答えが見つかったら私 にも是非教えて下さいね」
そうだね、と心にもない返事をする。獅子雄がどんな人間か、俺は本当に知りたいのだろうか。きっとまだ「優しさ」を期待しているのではないだろうか。そんなことを考えていると、控えめなノックの音が部屋に響きエティとふたり扉を振り返れば、額に汗を滲ませたマリアが顔を覗かせた。しかも大量の荷物を抱えて。
「お食事中、申し訳ありません。獅子雄様から坊っちゃん宛にお荷物です」
「荷物?」
それも獅子雄から。
荷物の量は膨大らしく、宅配業者の男たちが入れ代わり立ち代わり、次から次へと部屋の中に段ボールを運び入れ、ついには山のように積み上がった。
「あらまあ、こんなにたくさん。 坊っちゃん、何をお願い致しましたの?」
「知らない。俺は何も頼んでない」
俺もエティもマリアも、増え続ける段ボールを呆然と見つめることしか出来ずに立ち尽くした。
荷物の波は二十分ほど続き、最後の一箱を運び終えると辺りは一気に静寂を取り戻した。
「………何だったんだ……」
さあ、とメイドふたりも首をかしげている。とりあえず俺宛だからと、戸惑いながらも一番近くにあった箱を開けてみる。
「………服?」
中には衣類がぎっしり詰め込まれている。下着からジャケット、靴下や手袋まで。それらに付いている高級ブティックのブランドタグには見覚えがあった。これもきっと獅子雄の会社のものだろう。高価すぎて俺には手の出せない代物だ。
「坊っちゃん、こちらも」
エティは細身のジーンズを持ち上げて俺に見せる。くすんだブラックでサイドにライン状にラメが散りばめてある。着る人が着ればおしゃれだろうが、果たして俺に似合うのだろうか。
「こっちは靴とバッグ、それにアクセサリーまで」
マリアの開けた箱には小物やアクセサリーが入っているらしい。他にもテレビゲーム、雑誌と小説、CDにDVDまであった。そして携帯電話まで。ため息と共に頭を抱えた。一体獅子雄は何をしたいのか。
「まあまあ、こんなに。どうやって坊っちゃんのお部屋に運びましょうか」
エティは別のことで頭を悩ませている。
「……いやいや、ちょっと待って」
使い切れないほど買い込んで、そしてそれら全ては俺に宛てられたもの。獅子雄の真意が読み取れず、大量の荷物を前に途方に暮れた。
「良かったですわね、坊っちゃん。獅子雄様が下さると仰ってるのですから、素直に頂いたらいかがです?」
よし、とマリアは意気込み腕まくりをすると、段ボールを端から全て開け始めた。
「頂いていい量じゃないだろ」
総額はいくらになるかなんて考えたくもない。素直に頂いていい金額でないのだけは確かだ。
「でも、獅子雄様のことですから断っても無駄だと思いますわ」
それまで一緒に途方に暮れていたエティまでもそんなことを言って、マリアと並んで箱を覗き始めた。俺は何度も頭を捻ったけど、とりあえず獅子雄が帰るまでそのままにしておいて、としか言えなかった。
それからシャワーを浴びたり(浴室は言わずもがなゴージャスだった)、頬と足の怪我の具合を診てもらって、日が暮れるとほぼ同時に俺は疲労困憊で眠気に襲われた。シャワーを浴びる際、ズボンのポケットに入れていた、父親に投げ捨てられた札束はとりあえずベッドのサイドチェストの中に仕舞っておいた。本当に長い一日だった。疲れた、疲れた。もう本当に疲れてしまった。瞼は重く、閉じると同時に深い眠りにおちていた。
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