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第8話

 ――遠く遠くで、音がする。人の気配も。  帰ってきたのか………。 「獅子雄………」  眠りから覚めると、視線の先には予想通り獅子雄の姿があった。 「悪い、起こしたか」 「いや、大丈夫。……おかえり」  部屋が薄明かりだからか、獅子雄の顔色は今朝より増して蒼白だった。目の下のも濃く、酷く疲弊している。小さなため息が聞こえた。獅子雄は鞄をデスクに置くと、ネクタイを緩めながらこちらに近づき、俺の寝ているベッドに腰掛けた。大きく開かれた襟元から、艶めかしい鎖骨が覗いている。 「足はどうだ」 「うん、だいぶ良い。ありがとう」  俺の頭はまだ覚醒しきれていないらしく、ぼんやりとした灯の中をさ迷っている。獅子雄は俺の顔を覗き込み、その大きな手で俺の前髪に優しく触れた。思いの外それが温かくて心地良かった。 「寝ろ」  獅子雄のその一言で、意識はまた深い闇に落ちて行こうとする。駄目だ、獅子雄に聞くことがたくさんあるのに。 「獅子雄……」  起きて、獅子雄と話がしたい。いや、話をしなければ。力の抜け切った手を必死に持ち上げ獅子雄の腕に触れると、その手が大きな手に包まれた。 「いいから」  優しく囁かれた声。俺の目を、獅子雄の手が覆う。それを合図に俺の意識はぶつりと途切れた。  目覚めると既に外は明るかった。たっぷり睡眠をとったからなのか目覚めは爽快だ。 (ああ……、よく寝た)  空は白んでいるのに、広い窓からの日差しはまだない。昨日、電源だけ入れておいた携帯電話を確認する。五時三十七分。こんな早朝なのに、獅子雄の姿が見えない。また仕事だろうか。寝る間もなければ過労死し兼ねない。  ベッドから這いでて、左足を引き摺りながら隣接されているトイレに向かう。用を足し部屋に戻るとソファの肘掛けからはみ出た二本の足に気が付き、そろりと近付き見てみると、獅子雄が美しく整った寝顔を晒していた。帰宅して着替える余裕もなかったのか、ワイシャツにスラックスのままだ。 (………綺麗な顔……)  まるで石膏像みたいだ。嫌だな、と思う。獅子雄のこの顔、獅子雄の寝顔は、嫌だ。何にも動かされない、作り物みたい、死んでいるみたい。もしかしたら、本当に――  ごくりと喉が鳴る。その衝動を抑えられなくて無意識に手を伸ばした。ゆっくりと近付き、指先が獅子雄の首に触れて、触れてしまった、と実感した瞬間ばちりと目が開いた。 「びっ!」俺は反射的に手を引っ込める。「――くりしたあ……!」 「……こっちの台詞(せりふ)だ」  冷や汗の滲む額を拭いながら、それはそうだなと納得する。寝てる間に首に手を掛けるなんてことは、恐らく殺される以外になさそうだ。脈があるか確認したかったのだと言いたかったけれど、きっとまた呆れられるだろうからやめておいた。獅子雄は自身の首の安全を確かめるようにそこに触れ、深く長く息を吐いた。 「獅子雄」  起きたついでとばかりに、俺は獅子雄の隣に腰掛ける。近くにある肌は、石膏像とは違い当たり前に温度があった。 「……どうして俺のこと助けたりなんかしたの」 「……………」  獅子雄は無言で目に掛かっている前髪をかきあげる。香水と煙草の入り交じったような「男」の匂いがした。 「顔見知りでもない見ず知らずの人間を家に住まわせて、その上この段ボールの山。なんでこんなに良くしてくれるのかなって、単純に考えたらおかしいことだらけで」  こちらからしてみたら不思議だろう、と問い掛けると、獅子雄は束の間押し黙った後、口を開いた。 「例えば道端で子猫を拾ったとしたらどうする?」  俺は眉を顰める。言葉の真意が見えない。 「……え、ええと……とりあえず寝床と餌の用意をする………」  そうだろう、と獅子雄は言う。 「それと同じだ」 「は?」  ますます意味が分からない。俺を犬猫だとでも思っているのだろうか。  「動物と一緒にするな」 「一緒にした訳じゃない、例えばなしだ。おまえを拾ったから必要なものは用意した、それだけだ。そもそもおまえから助けろと言ったのを忘れたのか」 「そうじゃないけど、確かに俺から言ったけどでも………っ」  それはそもそも駄目元で言ったことであって、まさかこんなに優遇されるなんて誰が予想できただろうか。 「………道端で子猫なんか拾う奴じゃないくせに…………」  小さな声で悪態をつく。獅子雄は瞬きも少なく前だけを見据えていた。 「人間の子供だったから助けたんだろう」  数秒、否、数分だったかも知れない。しばらく黙り込んだと思ったら、獅子雄はそんなことを言った。 「あんな狭くて汚いところで死にそうになってる人間の子供を、おまえは見過ごせるか?」 「…………………」  今度は俺が黙り込む番だった。視線を獅子雄に向けたまま唇を引き結んだ。その間も獅子雄は前を向いたまま、一度だって俺を見ることはなかった。そしてそれ以上の会話はないと判断したのか、獅子雄は(おもむろ)に立ち上がり大きく伸びをした。 「出かけるの?」  何故だかやけに焦った口調になってしまって、反射的に口を塞いだ。 「煙草」  そう答えると獅子雄は煙草を口に咥えてバルコニーへ出てしまった。きっと俺がこの部屋に来るまでは、デスクやこのソファで吸っていたに違いない。広い空間に煙草の残り香と、デスクには吸い殻の入った灰皿が置かれてあるのを知っている。時永とエティの言葉を思い出す。優しいとは、こういう些細なことを言うのだろうか。  獅子雄の後ろ姿を見つめる。細く長く燻る煙を、俺は遠目で眺めていた。  ――寝ろ。  瞬時に意識が覚醒し、昨夜の記憶が呼び覚まされ驚きに目を見開いた。そうだ、昨夜の獅子雄。昨夜の獅子雄は、妙に優しかった。否あれは優しいというよりも、温かい、違う、そうだ、甘ったるい。ミルクチョコレートをどろどろに溶かしたような、そんな雰囲気を醸し出していた。(おぼろ)げな記憶の中の獅子雄をどうにか手繰り寄せるけれど、はっきりとは思い出せない。ふと視線を上げれば、夢現(ゆめうつつ)でないはっきりとした輪郭を持った獅子雄が不意にこちらを振り返った。室内にいる俺と、バルコニーに立つ獅子雄、窓ガラス越しであるけれどしっかりと視線を通わせた。急速に心臓が早鐘を打ち、みるみる内に顔に熱が集まるのが分かった。 (まずい…………)  あまりの恥ずかしさに両手で顔を覆う。昨夜の獅子雄はいけない。あの獅子雄の手の感触が脳裏に張り付いて離れない。優しい声と、温かな手。そうだ、あんなにも優しかった。心臓が喉までせり上がってるみたいに、五月蝿く何度も飛び跳ねる。落ち着け、落ち着け。そう胸の内で強く言い聞かせる。 「どうした」  落ち着きのない俺を不審に思ったのか、煙草を吸い終えた獅子雄が部屋に戻り、こちらへ近付いて来る。 「なんでもない………!」  俺は痛いほど五月蝿い心臓を誤魔化すように、勢いよく立ち上がった。それがいけなかった。 「っ!」  左足に走る鋭い痛み。がくりと膝が折れ、前のめりに体勢が崩れる。ガラスのテーブルが眼前に迫り、襲い来るであろう痛みに固く目を閉じる。その直前、長い腕がこちらへ伸びるのが分かった。間に合え、と心の中で叫ぶ。 「………気を付けろ」  吸い終えたばかりの、鮮やかな煙草の匂い。恐る恐る目を開くと開襟されたシャツから覗く鎖骨があり、どうにか無事であることを確認して息を吐いた。獅子雄は(かし)いだ俺の身体をしっかりと抱きとめて、その腕の中に収めてくれていた。馴染みのない煙草の匂いにも、ほんの少しだけ愛着が生まれる。 「怪我はないか」 「うん、大丈夫、ごめん」  礼を言おうと顔をあげれば鼻先が触れ合うほど近くに獅子雄の顔があり、俺は反射的に腕を突っぱね俯いて、わずかながらに獅子雄と距離をとる。 「もう大丈夫だから、ありがとう。ベッドに戻る」  もう離して、そう続けようとすると、不意に足元から地面が消えた。驚きのあまり喉が引くつく。 「………軽い。細くて小さいし、もっと肉をつけろ」  獅子雄に軽々と抱き上げられて、恥ずかしさに身を縮めた。こんなに恥ずかしい想いをするのは生まれて初めてだ。きっと俺の顔は真っ赤に染め上げられているのだろう。涼しい表情をしながら俺を抱く獅子雄にも気付かれてしまうほどに。 「きちんと食ってるか」  そう言って静かに微笑みまで見せて、いやに優しく俺を扱いベッドに横たえた。そしてそのまま俺の顔を覗き込む。 「いやだ、見るな、五月蠅い。俺はまだ成長期なんだよ、おまえと違って。だからすぐにおまえの身長なんか超えてやるからな。くそ、この、変態じじい!」  火を噴いてしまいそうなほど身体が熱くて、とにかく恥ずかしくて両手で獅子雄の目を塞ぐ。思いつく限りの悪態を並べ続け、すべてを言い捨てると、獅子雄は不敵に口角を上げた。 「それは楽しみだ、生意気なクソガキ」  自身の両目を塞ぐ俺の両手をいとも簡単に片手で外し、愉快そうに小さく肩を震わせながら獅子雄はバスルームに消えて行った。今だ五月蠅く脈打つ心臓を落ちつけながら、その後ろ姿を見送る。これからこの男と暮らしていくなんて、俺の心臓が耐えられるだろうか。俺は身体の熱さを誤魔化すように枕を抱きしめ、顔を埋めた。  これは、期待をしてもいいのだろうか。獅子雄のそれは、同情と同義でない優しさであると。与えられるそれは、優しさであると信じてしまってもいいのだろうか、しかしもう既に決まっている。俺は間違いなく期待している。これは優しさであると、愚かにもそう信じたがっている。

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