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第9話『九月』

○ 我妻椿(あがつまつばき)  この屋敷に居座り暫く経つ。足の怪我は随分と良くなり痛みもとうに引いて、備前家の人間にもだいぶ慣れてきた。 「おっさん」  けれど俺は今、すこぶる機嫌が悪い。 「なんだ、クソガキ」  目の前にいるのは、黒の革張りのソファに腰掛け優雅にコーヒーカップを傾ける獅子雄。 「おまえ、これ絶対に嫌がらせだろ」 「だから何が」 「服だよ、服!」  そう、服だ。獅子雄が突然買ってきた、大量の俺の服。 「店の売れ筋らしい、気に入らなかったか」 「デザインの話じゃない」  ファッションに疎い俺にはそれがお洒落なのかは分からないけれど、質が良いものであることだけは分かる。しかし問題はそこではない。それならば他に何の文句があるのかと、獅子雄が片眉を上げる。 「サイズ!」  余った袖を指先で弄りながらそう言うと、獅子雄はコーヒーカップを置き目を細めて俺の全身をくまなく眺め、そして俺から口元を隠すように手で覆った。嘲笑を噛み殺しているのだとすぐに気付いた。だから言いたくなかったんだ。 「くそじじい!」  罵倒する言葉と共に獅子雄に飛びかかり、皺のないワイシャツの襟元を掴む。 「おまえ、絶対にわざとだろ。部屋着もシャツもジャケットも、全部でかいサイズばっかり! 馬鹿にしてるのかよ」  ソファに倒れた獅子雄に馬乗りになり、拳で胸を殴る。俺は決して身長が低い訳ではない、至って平均的だ。けれど昔から瘦せ型で筋肉も少ない。獅子雄は長身だから知る由もないだろうが、それは思春期の俺にとって大きなコンプレックスだった。俺にされるがまま殴られ続ける獅子雄はダメージを受けるどころか面倒くさそうな表情まで浮かべ、そして突然俺の両腕を掴むとそのまま勢いよく上半身を起こした。 「うわっ」 「悪かった。謝るから許せ」  獅子雄は俺を自身の膝の上に座らせながら、ぐいぐいと間を詰めてくる。切れ長の双眸(そうぼう)が俺を飲み込むみたいに一気に近付いた。 「や、やめろ………」  身体を離そうと力を込めても、獅子雄はぴくりともしない。悔しいことに身長も腕力も差は歴然で、動揺にそわそわと目が泳いだ。この男はそんな俺を見て楽しんでいるのだろうか、揶揄って遊んでいるつもりなのだろうか。些細な抵抗も虚しく獅子雄は鼻先が触れ合うほどまでに顔を近づけると、きっと今までたくさんの女を悩殺してきたであろう美しい笑みをつくり、俺に言い放った。 「おまえが、そんなに小さいと思わなかったんだ」  頭の血管が、ぷちっと音を立て切れた。気がした。 「馬鹿にすんじゃねえよ! このくそったれ!」  ごつん、と鈍い音を立て頭突きを御見舞し獅子雄の手から逃れる。人のコンプレックスを悪びれもなく揶揄するなんて最低だ。俺はぶつぶつと文句を言いながら、既にほぼ定位置と化したベッドに潜り込み頭まですっぽり布団を被った。 「おい、椿」 「………………」  この男はつくづく卑怯だ。いつもは「おい」の一言で済ませるくせに、少しでも俺が拗ねようものならあの温かく甘ったるい、耳馴染みの優しい声で名前を呼ぶ。つばき、と一文字一文字きちんとした響きで。 「悪かった。また新しく買い直してやる、な?」  ベッドの脇がぐにゃりと歪む。獅子雄が座った気配がした。そして布団から飛び出していた俺の髪に、獅子雄の指先が触れた。 「………触んな」 「椿、悪かった」  本当、おまえのそういうところが大嫌い。 「子供扱いしてんじゃねえよ」  俺は布団をずらして少しだけ顔を出す。こちらを見ていた獅子雄と目が合った。こういうところが本当に本当に大嫌いだ。優しくされたらいつまでも不機嫌でいるのが馬鹿らしくなる。 「…………新しい服は少しでいい。どうせすぐに身長伸びるし」  まだまだ成長期なのだから、そう自分に言い聞かせる。そしていつか獅子雄のこと見下してやる。 「今日の仕事帰りに買ってくる」  獅子雄はくしゃくしゃと俺の頭を撫でた。まるで子猫を可愛がるみたいに。 「許した訳じゃないからな」  俺はその手を払い除け精一杯の嫌味を込めて睨みつけるも、やっぱり獅子雄は動じない。それどころか少し微笑んでいる気さえする。そんな表情をされるとせめてもの抵抗も途端に台無しになってしまう。 「…………一緒に行くか?」 「えっ」  獅子雄から発せられた予想だにしない一言。先ほどまでの腹立たしさが綺麗さっぱり、一気に失せた。この家に来てからというもの、足の怪我もあり一度も外出していないのだ。いつも家の中で、本を読んだり映画を見たり、時永の持ち物だという古いレコードを聴いてみたり、それに飽きたらメイドふたりの仕事の邪魔をして庭師の男の傍らで土いじりをしたり。この退屈さにはそろそろ限界を感じていたところだった。 「今日? 今日行くのか?」  俺は勢いよく起き上がり、獅子雄に詰め寄る。獅子雄は表情を変えないまま、そうだと頷いた。 「マジかよ! 最高じゃん」  余りの嬉しさに、腕時計を確認する獅子雄の首に腕を回して抱き着いた。襟足の伸びた髪を指先で感じながら、ぎゅうぎゅうときつく抱き締めた。すると俺の背中に獅子雄の手が軽く添えられて、耳元で静かに微笑まれた気がした。 「仕事が終わったら連絡する。着られる服を探して待ってろ」 「うん、待ってる」  獅子雄から届けられた段ボールは今だに山を成していて、この中を全て探れば俺の身体に合う服だって一着くらいはあるだろう。俺は獅子雄を解放し、段ボールの山に駆け寄った。 「仕事、何時に終わる?」 「二時間で済ませる」  言い切って、獅子雄はバスルームに消えていった。二時間でこの山を制覇できるだろうか、大量の服の中から一着を探さなければならないのに。しばらく考えた後、部屋の扉を開けて辺りを見回す。いつも部屋の周りをうろうろしているのだけれど。 「エティ! マリア!」  呼ぶと廊下の突き当たりを曲がった向こうから、はあい、とエティの返事が聞こえた。一緒に探せば二時間で準備も整うはずだ。久しぶりの外出が楽しみで仕方がなかった。一緒に行く相手が、いけ好かない獅子雄だとしても。  わくわくと浮き立つ心を隠しもせずに片っ端から箱を開けていると、背後から不意にぬるい風を送られた。 「うわっ」  耳にかかる吐息に、背筋がぞくぞくと震える。慌てて後ろを振り返ると、時永が立っていた。 「驚かせてしまってすみません。坊っちゃんが余りにも楽しそうでしたので」  時永は目を細めて上品に笑う。その笑い方はエティにそっくりだ。 「気配消して近付くのやめて。普通に来てよ」 「それは申し訳ありません、職業病のようなものですのでご容赦下さい。ところで、坊っちゃんは何をされているのですか?」  俺が次々と開いていく段ボールを、後から続く時永が覗いて行く。 「獅子雄が買い物に連れて行ってくれるらしいから、着られる服を探してる」  段ボールを覗いていた時永が、視線を俺に移した。 「獅子雄様が?」  時永は驚いたような声を出し目を丸くした。 「……そうだけど、なに?」  訊き返せば時永は瞬時に表情を整えるとにっこり微笑み、いいえ、と答えた。 「随分と仲良くなられたようで、何よりです」  その言葉に沈黙で返す。獅子雄と俺が仲良しこよしだなんて、そんな訳ないだろう。沈黙を守りながら作業を進めていると身支度を終えたらしい獅子雄がバスルームから姿を現して、意識は自然とそちらへ流れ目の当たりにした姿に思わず目を奪われた。常に瞳を隠すように伸びていた前髪はきっちりとセットされ、額を覗かせるどころか整った顔が丸出しで心臓に悪いほどだった。 「………なんだ?」  俺の視線に気付いた獅子雄は、ネクタイを締める手を止める。俺は依然、獅子雄から目が離せずにいる。 「………別に…………」  やっとの想いでそう告げると、獅子雄は俺に興味をなくしたように細く白い指でネクタイを締めた。俺はその姿を、尚も呆然と見つめ続けた。 「仕事が片付いたら連絡する。――行ってくる」  最後にカフスボタンを留め、更に銀縁の眼鏡までかけて出ていった。いつもだらしないくせに、何だあれ、まるで別人だ。 「………変なの」  誰もいなくなった部屋で、ぽつりと呟く。変、変だ、へんへんへんへん。あんなの獅子雄じゃない、全然似合ってない。変だ、おかしい、変。 「変!」  本当におかしい。ここに来てからというものずっと獅子雄に振り回されっぱなしで、あいつのひとつひとつの言動に一喜一憂したりして。おかしい、そんなのは、おかしい。 (蝕まれてる………感じがする)  何が、とは分からないけれど胸がざわざわして落ち着かない。本当におかしくなってしまった。変、変、変。 「こんなの、絶対に変だ」  苦しくなった胸の辺りを、固く握りしめた拳で規則的に何度も叩く。落ち着け、考えるな。 「何が変なんですか?」 「うわっ」  ふと我に返れば、いつの間にか隣にはエティが立っていた。 「何度もお呼びしたのですが、坊ちゃんお返事をして下さらなかったので」  何かお手伝いすることでも、とエティが訊ね、俺は頷く。そうだ、今は答えのない問いを繰り返すより、二時間後の未来の為に服を探すほうが大事だ。面倒なことは、後回し。 「俺に合う服、一緒に探して欲しくて。獅子雄と出かけるから」  そう告げると、エティは大袈裟に思えるほど驚いた。 「獅子雄様と、お出かけなさるんですの?」 「時永さんと同じ反応だけど、それが何かおかしいの?」  一緒に出掛けることの何がおかしいのか、俺は作業する手を止めてエティの反応を窺う。 「いいえ、失礼致しました。まったくおかしいことなんて………ただ、坊っちゃんがこのお屋敷にいらしたこともそうなのですが、獅子雄様がどなたかをお連れするなんて珍しくて。この屋敷にはもう随分と長い間、私たち以外の誰も足を踏み入れたことがありませんから」 「………そうなの?」 「ええ、そうですわ。ですので坊ちゃん、張り切ってお洋服を探させて頂きますわ」  エティは早々に会話を切り上げると、やる気充分といった様子で袖をまくり上げ驚くほどの速さで服を仕分け始めた。  獅子雄が誰かを連れ歩くのは珍しい。そもそもこの屋敷に他人が足を踏み入れることはない。それがもし事実なのだとしたら、尚更どうして獅子雄は俺に構うのだろうか。考えても答えの出ないことが、頭の中を何度も何度も駆け巡る。自力で答えを見出すのはほぼ不可能、誰かに訊いても分からない、獅子雄に訊いても答えてくれない。  どうして獅子雄は、俺に構うのか。それが分からないから、俺は獅子雄のことばかり気にしているのだろうか。どうして獅子雄のことばかりが気にかかるのか。そんなもの分からない、分かりたくもない。

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