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第4話

 小さなパンをあっという間に食べ終えると途端に手持ち無沙汰になり、自分自身を慰めるように抱き締めながらなるべく小さく纏まった。夏で良かったと心底思う。夜中の寒さも、我慢できない程じゃない。学校の制服を着てるから、警察や余計な世話を焼くお節介な大人に見つかるのが面倒で、隠れるように蹲った。  早く朝が来ればいい。強くそう願った。固く目を閉じても、寝られるはずがない。ネットカフェにでも行こうかとも考えたけれど、治ったばかりの左足が酷く痛んで移動するのが億劫だ。ひとり過ごす夜はいやに長く感じたけれど、病み上がりの疲弊した身体では何もできなくて夜通しそこで動けずにいた。ポリバケツの上の汚れた白猫は、いつの間にかどこかに行ってしまっていた。とうとう独りぼっちになってしまった。結局一睡も出来ずに、俺は白み始める空をぼんやりと眺めてた。これからのことなんて、何ひとつ考えていない。考えたって、何もできない。  夜が明けたら、俺は一体何をするのか。どこへ向かうのか。硬くて冷たいコンクリートに座りっぱなしの尻はとっくに悲鳴をあげている。こんなことだったら、もっと大怪我をして入院が長引けばよかった。病院以外では生活できないほどずたずたになってしまえばよかった。そうじゃないのなら、本当に死んでしまえばよかったかも知れない。そんなことばかりを考える。空が次第に熱を持ち始める。よく晴れた眩しい空だ。不意に眺めている空の反対側から人の気配を感じて、俺はそれをやり過ごしたくて再び膝の間に顔を埋めた。近付いてくる足音は俺のすぐ間近で止まる。 「おい」 「はい」  頭上から聞こえる男の声に、顔を上げずに返事をする。  警察かも知れない。面倒くさい。事情を話したら、家に帰されるのだろうか。拳を振り上げる父親が容易に想像できた。くそ、制服なんかさっさと脱ぎ捨てるべきだった。金はたくさんあるのに。 「何をしている」  男は俺の横に膝をつく。細い縦縞の入ったスラックスと、焦げ茶色の艶々とした革靴が横目に入った。どうやら警察ではないらしい。恐る恐る顔を上げると、二十代後半と見られる若い男と目が合った。スーツは立派だけれど、前髪は長くて目にかかっているしネクタイは中途半端に緩められていてとても他人に気遣いが出来るような優しい男には見えなかった。 「喧嘩か」  男は表情を変えず、俺に問いかける。 「いいえ」  この男、警察でないのならきっと面倒な大人だ。 「殴られたのか」  ほら、やっぱりな。心の中で呟く。 「殴られました。でも大丈夫です」  元気です、と俺は続ける。男は怪訝な表情をした。頭のおかしい奴だと思っただろう。 「病院に連れて行ってやる」  なんだこいつ、他人を構うのが趣味なんだろうか。まさか、とてもそうは見えない 「いいえ、昨日退院したばっかなんで。行くと気まずいんで」  行きません、と俺は続ける。男は更に眉を顰める。早く何処かへ消えてくれないだろうか。もうゴミクズみたいな俺のことは放っておいてくれないだろうか。頭のおかしい奴だと思って、早く見捨ててくれ。座りっぱなしの尻が、そろそろ限界だ。男が立ち去ってくれないのならこちらから去ってやろうと、立ち上がる為に足に力を入れる。電流が全身を駆け巡るほどの強烈な痛みが走った。額から一気に脂汗が噴き出る。左足が小刻みに震え、俺の意思とは関係なしにびくりと跳ねた。大きな舌打ちが漏れた。何故だ、骨は完全に繋がったのに。 「くそったれ」  自分の脚に悪態をつく。握った拳で太腿を殴れば、振動が骨に伝わり更なる痛みに呻き涙の膜が瞳を覆った。  くそったれ、くそったれだ、こんなもん。こんな出来損ないみたいな身体、くそったれだ。だから親にも見捨てられるんだ、俺が、こんな、くそったれで出来損ないの欠陥品だから。親に愛されることすら許されない、馬鹿な子どもだから。 「おい――」 「うるせえよ」  何か言いかけた男を遮り、涙と共にそんな言葉が漏れた。みっともなく震えていたけれど、構うもんか。 「いちいちうるせえよ、おっさん」  情けない、無力な自分に腹が立つ。震える左足を睨みつけながら、それでも俺は動けずにいる。俺ひとりの力では、立ち上がれずにいる。  くそったれ。本当にこの言葉がお似合いだ。こんな使えない脚なんかないほうがましだ。切り落としてしまった方が、きっとずっと楽になれる。涙をとめたくて奥歯を噛みしめると、今度は殴られた頬が痛んだ。  もう嫌だ。こんなの、もう嫌だ。ここから立ち上がれずにいるなんて、そんなの嫌だ。 「おっさん」男は、まだそこにいる。「おい、おっさん」  野垂れ死んで堪るか。情けなくても、親に疎まれようが邪魔者扱いされようが、こんなところで野垂れ死んで堪るか。  みっともなくても、生きてなければならない。生きて、力をつけて、たったひとりでも立ち上がる人間にならないければ。そうでなければならない。たかだか親に捨てられたくらいで、野垂れ死んで堪るものか。 「おっさん、」  隣で、俺の様子を無言で見つめ続ける男の腕を掴む。上等な背広にいくつもの皺を作った。俺のことなんて放っておけば良かったのに。こんな面倒な奴に声をかけた、おまえが悪い。 「助けて」  はっきりとそう告げた。聞こえないとは言わせない。おまえは、俺の踏み台になる、踏み台にする。 「助けてくれ」  男は俺の眼差しを真正面から受け止めている。その鋭い眼光に怯むことなく、睨みつけるように男の瞳を捕らえた。くたばって堪るかくたばって堪るかくたばって堪るか。こんなところで死ぬわけにはいかない。俺は、生きなければならない。

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