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第3話

 きちんと頭に残っていることと言えば、命に別状はないということだけ。左半身を激しく強打していて、もしかすると後遺症が残るかもしれないと告げられた。地面に叩きつけられた際に脳震盪を起こして、俺は丸二日も高熱で寝込んでいたらしい。傷が完全に癒えたら、今度はリハビリが待っている。 「それでね、あの」  医師は気まずそうに口を開き、俺の寝ているベッドの脇に座った。ギブスのしてある左足が、ぐにゃりと沈んだ感じがした。医師は二の句が継げないでいるけれど、言いたいことは何となく分かる。 「親のこと?」  そう訊ねると医師は眉根を寄せて心苦しそうに俯いた。この人が気に病むことなんてないのに。聞けば俺の両親は、一度も見舞いに来ていないらしい。 「大きな会社の社長さんをしてらっしゃるんでしょう? もしかしたら、お忙しいのかもね」  何度も電話したんだけどね、と看護師も申し訳なさそうに言う。この人たちは俺に同情でもしているのだろうか。 「そうですか」  答えながら、俺もその看護師の真似をして、申し訳なさそうな表情を作ってみた。うちの親がどうもすみません、そんな顔をしたつもりだ。伝わっているかは分からない。どうせ俺の両親なんてそんなもんだと知っていた。特に悲観もしていない。昔からそうだ。今更どうもこうも感じない。親に何か求めるなんて、とうの昔にやめた。 「とにかく、君は治療に専念して。また、親御さんには私から連絡してみるから」  医師は寝ている俺の肩を、ぽんぽんと叩いた。そうですか、と俺は答えた。  しかし医師のそんな努力も虚しく、待てど暮らせど両親が現れることはなかった。着替えや身の回りのものは全て病院が貸し出してくれて、唯一の見舞い客と言えば学級担任の教師だけだった。とはいえ入学式の翌日に事故に遭ってしまったのだから、話すことなど全くない。ほぼ初対面の人間との同じ空間にいるのはこの上ない苦痛だった。知りたくもない学校の話を延々聞かせられるだけ。そして俺は延々と「そうですか」を繰り返す。何を聞いても当たり前に感慨はないし、授業に置いて行かれているということだけは痛いほど理解した。 「でも我妻、中学の頃は成績も優秀らしいじゃないか。退院して授業に復帰したら、きっとすぐに追いつくぞ」  担任は体育会系なのか、肩がずんぐりと盛り上がっている。角刈りの頭とでかい声が熱血を物語っていて、暑苦しくて鬱陶しい。 「先生は、我妻を待ってるからな」 「そうですか」 「我妻はそればかりだなあ、緊張でもしてるのか」  担任は、がはは、と笑う。山賊。それがぴったりだ。その山賊みたいな担任は、好き勝手に話し終えると俺の肩をばしばし叩いて「じゃあな!」と病室を後にした。叩かれた肩が、じんじんと痛む。怪我人をなんだと思っているんだと憤慨する。  寝て起きて食べてを繰り返し怪我もようやく癒えた頃にリハビリが始まって、山賊が来て、寝て起きて。そんな日が随分と続いた。それでも両親は来なかった。 「いよいよ、明日退院だね」  毎朝検温に来る看護師は、明るい表情をしている。若さというのは素晴らしく、怪我の治りも早ければ体力もある。入院していた三ヶ月間は長いようで過ぎてみればあっという間だった。 「我妻くん、リハビリ頑張ってたもんね。学校楽しみだね」  ひとりぺらぺらと呑気に喋る看護師に「そうですね」と、お決まりの返事をする。本当は楽しみなんかひとつもない。勉強は嫌いじゃない、授業も嫌いじゃない。ただ、面倒なだけだ。学校なんか、面倒なだけ。人間関係なんか、面倒なだけ。ずっとそう思っていたからか、中学の頃から当たり前に友人はいなかった。でもそれを寂しく感じたことは一度もない。 「明日、お父さんが迎えに来てくれるって。よかったわね」  え、と口から音が漏れた。 「俺の親ですか」  他に誰の親がいるのよ、と看護師は笑った。少しも面白いことなどないというのに。 「俺、ひとりで帰れますよ」 「何言ってるの。退院時は引き取る人が来ないといけないのよ。先生もそう仰っていたでしょう」  最悪だ。よりによって、父親が来るなんて、最悪だ。頭を抱えた。どんなに看護師に食い下がっても俺の言葉を聞き入れてはくれなかった。どうしようもない。どうやったって俺に逃げ場はない。俺はその瞬間を震えながら待つより他に、術はない。絶望は静かに近付いていた。  翌朝、黒いスーツに身を包んだ父親が、病室にのしのしとやって来て「余計な面倒かけさせやがって」と、痣がなくなったばかりの左頬を拳で殴り、俺の身体は容易く吹き飛んだ。我妻さん、とその場に居合わせた看護師が慌てて止めに入るも無駄だった。床に這い蹲る俺に、親父は汚い言葉を浴びせ続けた。それを耳に入れないよう努めた。いいんだ、こんなこと慣れている。 「もう、おまえの帰る家はない」  それだけははっきりとした輪郭を持って俺の鼓膜を揺らした。父はそう吐き捨ると、未だ起き上がることの出来ない俺に厚みのある封筒を投げつけ、それは肩に命中し中に入っていた紙幣がはらはらと床に舞った。 「くれてやる。 もう二度と、帰ってくるな」  そのまま病室を出て行く父を、ふたりの看護師が追いかける。その場に残った看護師が俺の身体を担ぎ起こしてくれた。  そうか、そうですか。心の中で呟いた。帰らなくていいのか、へえ、そうですか。  俺を必死に引き留める看護師をどうにか下手に躱しつつ、目玉が飛び出るほどの医療費を支払い病院を後にした。数ヶ月ぶりに触れる外の空気はあまりに澄んでいて、今の俺には不釣り合いで上手く呼吸ができなかった。照り付ける真夏の日差しは肌を焦がし、空を見上げると眩暈がした。  父親に投げ捨てられた紙幣を尻のポケットに入れて歩き出す。事故に遭ったときに持っていたぺしゃんこの学生鞄とくしゃくしゃに捩れた財布は道の途中で捨てた。ポケットに入れていた携帯電話は既に使い物にならない。病院で洗濯だけはさせて貰った擦り切れて薄汚れたよれよれの制服を身につけて歩く俺の姿は、少し金持ちの浮浪者だ。  もう、あの家に帰らなくていい。その事実に不思議と安堵したし、それと同時に悲しかった。捨てられた。これ以上ないくらい完璧に、俺は捨てられた。居心地が悪く息苦しい家だったけれど、俺にとっては唯一の「我が家」だった。殴る父親と、無視を決め込む継母、半分しか血の繋がらない兄妹だったけれど、俺にとっては「家族」だったのに。やっぱり俺は、あの人たちにとって邪魔な存在でしかなかった。もしかしたら、事故で死ぬことを望まれていたのかも知れない。それなのに生き残ってしまうなんて、残念な奴。  病院を出て何時間経ったのか、途方に暮れている内にどっぷりと日も暮れて、道行く人も子供や家族連れから、仕事帰りのむさ苦しい男たちに変わっていった。俺はコンビニでパンとジュースを買って、ビルとビルの隙間にしゃがみ込んでそれを食べた。青いポリバケツの上で、薄汚れた白猫が丸くなっている。艶をなくした毛と痩せ細った身体、今にも死んでしまいそうなその姿は、きっと今の俺と酷似している。パンを千切って差し出しても、何の興味も示さない。可愛くない奴。可愛くなくて、愛されない奴。それはきっと、今までの俺と酷似している。

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