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第2話『四月』

○ 我妻椿(あがつまつばき)  暗い暗い深海から引き上げられるように、俺は目覚めた。  一番はじめに見たのは薄汚れて黄ばんだ天井。視界の端に映るのは安っぽい水色のカーテン、そして自らの腕に繋がれている点滴。鼓膜を揺らすのは視界の外で活動する誰かの気配と、か細いけれど間違いなく繰り返されている自分の呼吸。生きている。  トランプゲームの神経衰弱みたいに、記憶の断片が行ったり来たりする。その日、どうして俺がこうなったのか。  よく晴れた日だった。前日は高校の入学式で、今日から新しい学校生活が始まろうとしていた、ちょうどその日。朝七時に起きて、朝食は食べずに家を出た。新しい制服に身を包んでうきうきするでもなく、これから再構築しなければならない人間関係に、うんざりすらしていた。  信号は、確実に青だった。  早めに家を出たからか、まだ人通りも疎らで、前方には小さな赤茶色の犬を散歩させてる中年の女がいた。小さな歩幅で歩く犬の後ろ姿が可愛かったから、よく覚えている。  信号は確実に、青だった。  その犬についていくように足を踏み出し、横断歩道に三歩目の足を出したときだ。気付いたときには遅かった。体の左半分に強烈な衝撃、少し遅れて全身の痛み。それを感じたときには、既に身体は吹き飛んでいた。経験したことのない浮遊感と、不自然な空との距離。  案外冷静だった。あ、死ぬ。そんな感じだ。  ちらりと視界の端に映るのは、オンボロの黒い乗用車。その運転席から、腹の出たタヌキみたいな男が出てきた。焦った表情。額に光る脂汗、口の端の泡。汚えな。遠退く意識の中で、きゃんきゃんと甲高く鳴く犬の声もした。  いてえ。  目を開けているのか閉じているのかさえも、もう分からない。とにかく視界は真っ暗だ。  いてえ。これはついに、いよいよ死ぬみたいだ。  恐る恐る近付いて来るタヌキじじい。女の悲鳴と犬の鳴き声。それがノイズに掻き消されるみたいに薄れて遠くなる。  おい、おっさん。俺がここで死んだら、おまえ、絶対に殺すからな。せめて救急車くらいは呼んでくれよ。そう念じて、意識は暗い闇に引き込まれていった。  生きていた。俺は今しっかりと生きて呼吸をしている。視界が狭い。左目の眼帯のせいだ。腕が上がらない、脚も動かない。身体が重い。頭が痛い。膝も、脇腹も、身体のありとあらゆる箇所が痛む。でも、確実に生きている。  病室はカーテンで仕切られていて、廊下からは忙しなく過ぎる足音がする。腕が痛くて、ナースコールを押せない。 「…………すみません」  小さいながら、声は出る。だけど誰かが気付く気配はない。じっと待っていようにも、頭痛が酷い。 「すみません」  もう一度呟くと、病室の前を通り過ぎようとしていた足音が、ぴたりと止まった。ゆっくりと訝しむように、少しずつ足音はこちらに近付いてきて「失礼します」と小さな声が聞こえ、カーテンが揺れた。若い看護士と目が合う。看護士は目を見開き驚いた表情をしたけれど、すぐにそれを整然とした表情に切り替えた。 「おはようございます。ここは病院です。ご自分の名前はわかりますか?」  「……我妻椿」  俺の所作を観察し質問を投げかけながら、看護師はナースコールを押す。きっちりと名乗れば納得したように頷かれた。 「どこか痛むところは?」 「頭が」  あと、全身が。答えて、俺は再び目を閉じる。とにかく頭が、割れそうに痛い。  それから男の医師と更に看護師がひとりやってきて、簡単な事故の経緯を聞かされた。疑問に思う箇所もない程度に俺の記憶と相違なかった。これからどのように治療していくのかを説明してもらったけれど、ひとつも頭に入ってこない。半ば医者の身勝手かと思ってしまうような説明をひと通り聞き終え、点滴の針を入れ替えて鎮痛剤を処方されてやっと落ち着くことが出来た。

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