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第11話

 獅子雄は煙草を吸うと言って外へ出たきりそれから店内へ戻ってくることはなかった。俺は迷うこともなく適当な服を選び終えレジカウンターに向かうと、奥のスタッフルームから白髪まじりの男がやって来た。やはりこの男が店長らしい。 「先程は、申し訳ありません」 「は?」  会計の途中、店長は突然頭を下げた。 「オーナーが店舗にいらっしゃるのは初めてなもので、よかれと思ってスタッフを集めたのですが、ご迷惑だったようで。まさか、お連れ様もいらっしゃるとは知らず、視察か何かかと思いまして…………大変、失礼致しました」 「いえ、そんな、謝ることじゃ」  俺の年齢の倍はゆうに生きてるであろう年上の男が、深々と頭を下げるのは余りにもいたたまれなく慌てて顔を上げさせた。 「大体、獅子雄が勝手すぎるだけで、俺様すぎるって言うか……………オーナーなのに店に来たことないあいつの方がおかしいですって」  オーナーとは名ばかりで、獅子雄は店や服自体には全く興味があるようには思えなかった。そうでなければ、服なんてどれも似たようなもの、などとは言えないだろう。店長の男は俺の様子を観察するように眺めた後、にこりと微笑んだ。笑うと目尻の皺が深くなり、余計に年を重ねているように見える。 「でも、まあ、その代わりと言っては何ですが、この店は私の好きにさせて貰ってますから。こちらとしては有難いです。…………オーナーとは仲がよろしいようですが、ご兄弟で?」 「あ、いえ……兄弟では、ないけど………」  関係性を言い表すのが難しく思わず言いよどむ。俺と獅子雄の関係は、何と言うのが正解だろう。同居人、居候、他に何があるだろう。 「これは、踏み込んだことをお聞きしてすみません。お兄様がいらっしゃるとは伺ったことがありましたので、気になってしまって、つい」  店長は商品を袋を詰めながら、今度は小さくぺこりと頭を下げる。 「…………兄貴? 獅子雄に?」 「……ええ、そう伺いましたが、違いましたか?」 「いや、俺が知らないだけかも。……そうなんだ」  獅子雄に兄弟がいるなんて知らなかった。そういえば、両親はどこにいるのだろうか。あんなに広い屋敷があるのに、一緒には暮らしている様子は今日までには見受けられなかった。もしかするとあの屋敷の何処かにいるのだろうか。そこまで考えて、はたと気が付く。獅子雄に兄貴がいるのだとしたら、一般的に考えて順当にいけば会社を継ぐのは獅子雄ではなく兄貴の方ではないのだろうか。 「あの、もしかして」  店長の声に、巡らせていた思考を無理やり中断し顔を上げる。 「この間、オーナーから若者向けの服の大量発注を受けたのですが、あなた宛でしたか?」 「ああ、あのMサイズばっかりの」  ほとんど全部サイズの大きい、だぶついたものばかりだった。とは、言わなかった。 「そう、そうです。段ボールにぱんぱんに詰めて」 「それも相当大量に」 「余りにも多い数だったので、何かの間違いかと思いましたよ。オーナーは、あなたのことを余程大切に想ってらっしゃるんですね」  その言葉に、は、と素っ頓狂な声を上げる。 「獅子雄が、俺を? 有り得ない。あいつ、そんなに優しい奴じゃないよ」  たぶん。  その一言だけは飲み込んだ。いつも意地悪だし、何も話してくれないし自分勝手で不愛想。もしも本当に俺を大切に想ってくれているのなら、もっと優しく扱ってくれてもいいのに。そう、そうだよ、もっと優しく。 ――椿。  湖面に広がる波紋のように、脳内に獅子雄の声が響く。不意に、あの夜の獅子雄を思い出した。甘ったるい声で俺の名を呼ぶ獅子雄。まるで花弁をなぞるようにして俺に触れる、あの夜の獅子雄。深く眠り込んでいる俺を、夢と現実の狭間に誘い込む、もうひとりの、獅子雄。 「…………あの、どうかなさいました?」 「え、なに」  急速に現実に引き戻され、俺は記憶の中の獅子雄をかき消す。あんなの、きっと俺の幻想だ。 「突然、黙り込んでしまったので」 「ああ、少し考え事。服、ありがとう」  お車までお持ちします、と最後まで気遣う店長を出来るだけ丁寧に断り、俺は走るように店を出た。外の空気を肺いっぱいに吸い込み、なるべく記憶を遠く遠くへ追いやった。店の前には既に車が停まっていて、運転席には時永、後部座席には煙草を吸い終えたであろう獅子雄が待っていた。 「遅かったな、何を話していた」  車に乗るなり、獅子雄が唐突にそう訊ねる。行きと同様、時永の合図で車は静かに発進した。 「何って別に、特に何も」  これといって特別な話をした訳ではない。取り留めのない世間話だ。 「あ、でもそういえば、獅子雄って兄弟いたんだな。知らなかった」  買い物した荷物を獅子雄との間に置いて横を見やると、睨みつけるような視線にぶつかった。 「なんだよ、見んなよ」 「誰に聞いた?」 「は? 誰にって、今の店の人に決まってんだろ。今聞いたんだから、それ以外いるかよ」 「――……そうか」  獅子雄は窓の外に視線を移す。きっちり分けられた前髪から、眉間の深い皺が見えた。 「で、いるの? 兄貴」 「……ああ、すぐ上にひとり」 「へえ、あの屋敷に? 見たことはないけど」 「いや、国外に」 「ああ、へえ、そうなんだ。だから国内の会社は弟のおまえが任されてるって訳ね」 「ああ、まあ……そんなところだ」  煮えきらない返事。何か話したくない理由でもあるのだろうか。その態度にいい気はしないが悪い気を起こすのもおかしな話だ。そういう俺だって、家族の話なんてしたことはない、したくもない。聞かれないから答えない。話したくないから話さない。きっと、獅子雄も同じだ。だからそれ以上深く訊く気にもならず、俺も窓の外の街並みに目を向ける。  昼間からギラギラと煩い看板を掲げたゲームセンターの前に、四人の男女がたむろしていた。年頃はきっと俺と同じくらい。近くの私立高校の制服を着ている。 (……夏休みの時期なのに………補習か部活か何かかな…………)  四人で輪を作り笑い合う姿は、ゲームセンターの下品な看板よりもキラキラと光って見えた。もしかしたら俺にも、あんな未来が待っていたはずなのに。高校も卒業できないで、俺の将来はどうなるんだ。漠然とした、それでも大きな不安が脳裏を過ぎる。その不安な将来は、余りにも近すぎる未来だ。  今は食うに困らなくとも、一生獅子雄の世話になりながら生きていくことはできない。いずれはひとりで生きていかなければならない。獅子雄の気まぐれで拾われて、また気まぐれに突然放り出されれば、今の俺にはひとりで生きていく術はない。どうしようもなく無力だ。 「羨ましいのか」  突然降り掛かる獅子雄の声に、肩が反応する。 「羨ましいって、何が」 「あの高校生、見ていただろう」 「………まあ、見てたけど」  このままじゃ将来が漠然と不安です、なんて、口が裂けても言えない。 「…………行きたいのか、学校に」 「は?」 「行きたいのなら、通わせてやる」  こいつは本当に、どういうつもりなのだろうか。何を思ってこんなことを言うのだろうか。獅子雄はいつもどおり平然と、涼しい表情をしている。 「あのな、おまえ、本当にいくら何でもやり過ぎだ。そんなこと言われて、俺が素直によろしくお願いしますって言うと思ってんのかよ」 「言わないのか」 「言わねえよ! そこまでされる義理はない」 「高校くらい卒業しておいても損はないだろう」  獅子雄のあまりに憮然とした態度に、確かに、と俺の心は揺れる。これ以上ないくらいに有難い話だ。 「大人の好意には甘えておけ」 「…………うるさい。この話、今は終わり」  もういい、充分だ、と俺はひらひらと手を振って話を断ち切る。獅子雄は浅く息を吐いた。 「通う気になったら言え」  尚もしつこく続くそれに、俺は獅子雄の顔を見ないまま、ハイハイと会話を流した。

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