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第12話
両手に荷物を抱えて帰宅すると、獅子雄の部屋ではエティとマリアが待っていた。
「まあまあ、坊っちゃん、獅子雄様、お帰りなさいませ」
「あらあら、お疲れでしょう、今お茶をお持ち致しますわ」
メイドふたりは俺たちに気づくと仕事の手を止めて、エティはいそいそと獅子雄の部屋を後にし、残ったマリアは俺の服が詰められた段ボールをひとつずつ空けていき、せっせと服の山を作り上げていた。
「………どういうこと、これ?」
数時間ぶりに訪れた部屋には、それまでなかった豪奢なクローゼットが三つに、ガラスのショウケースがひとつ、壁を背に横並びに置かれていた。
「素敵なクローゼットじゃございません? 坊っちゃんのお洋服のために、空いてる部屋から運んで参りましたの」
「え、俺の部屋って、こことは別に用意してるんじゃないの?」
間髪入れずに尋ねるも、マリアは聞いているのかそうでないのか、俺を無視して作業を続ける。この屋敷に来てから数日、俺はずっと獅子雄の部屋に居座っていた。そもそも別の部屋に移動になると思っていたから、わざと段ボールを開けずにいたのに、これじゃあまるで――
「もしかして、これからも獅子雄と同じ部屋にいろって言うの?」
そんなの困る、と言いかけると突然マリアが振り返った。その瞳は今までに見たことのないくらい真剣そのもので、少しだけ身を竦めた。
「坊っちゃん」
「………なに」
「このお屋敷、とっても広いんですの」
唐突にそう話し出す真意が読めず、淡々としたマリアの言葉に耳を傾けた。
「こんなに広いお屋敷ですのに、常駐する使用人は私とエティのふたりしか居りません」
「? うん………」
「私たちのお仕事って、お屋敷のお掃除だけに留まらずお洗濯やお食事の準備、他にも細かなことは案外たくさんあるんです」
「………つまり?」
マリアは俺の手をその柔らかな両手で包み込み自身の眼前まで持っていき、まるで祈るような姿勢で訴えた。
「心優しい椿坊っちゃんなら、分かって頂けますでしょう?」
これまでマリアの話を頭の中で要約する。
「ええっと………部屋の掃除が大変だから、これからも獅子雄の部屋で我慢しろってこと?」
言うとマリアは、我慢だなんてそんな!と、わざとらしく驚いて見せた。
「獅子雄様と同室はご不満ですか?」
俺の意見を聞き入れるつもりがあるのかないのか、両手を解放したマリアは次々と俺の服をクローゼットに詰め込む。
「不満っていうかさ、単純に困るじゃん。寝るとことか」
俺がこの部屋に転がり込んでからというもの、獅子雄は気を遣ってか大きな身体で窮屈そうにしてソファで夜を過ごしている。俺がベッドを譲ればいいだけの話だが、獅子雄は俺の就寝時間に部屋を空けていることが多く中々タイミングが合わないで困っていた。
「まあまあ、ご一緒にお休みになられているとばかり思っていましたわ」
「そんな訳あるかよ。男ふたりなんて有り得ない」
「こんなに大きなベッドですのに、勿体ないですわ」
「大きさとか関係ない。同じベッドが嫌なんだよ」
マリアと言い合いを続けている間、獅子雄は素知らぬふりでさっさとデスクに向かいパソコンと睨めっこしている。この話に無関係ではないくせに、全く涼しい表情で。
「あらあら、坊っちゃん。いかがされました? お部屋の外までお声が聞こえましたわ。さあ、お茶でも飲んで落ち着きましょう」
お互い引き際が分からなくなった俺とマリアの間に、エティが紅茶のセットを持って割り込む。
「さ、坊っちゃんの大好きなアッサムのミルクティですわ」
エティに腰掛けるよう促され、俺は紅茶の香りに誘われるように素直に着席した。
「坊っちゃん、獅子雄様のことはお嫌いですの?」
カップの淵に口を付けた途端、まるでそれを狙ったかのようにエティはそんなことを言った。熱い紅茶が唇を刺激して、慌ててカップを下げる。
「熱っ………何、エティ、急に」
「あらあら、失礼いたしました。…………いいえ、坊っちゃんが獅子雄様との同室を嫌がっているようでしたので」
「………嫌がってるって言うか……」
口にナフキンを当てながら口ごもると、俺の横に立っていたエティは腰を屈めて、獅子雄に聞こえないように小さく俺に耳打ちした。
「………こういう言い方は大変不躾なのですが、坊っちゃんがこのお部屋を出て行くと獅子雄様が寂しいのではないかと思いまして。何度も申し上げますが、この屋敷に人が出入りするのはあなたが考えている以上に稀なことですので…………その意味を考えて下さるとこちらとしても有難いですわ」
それだけ言うと、エティはゆっくりと姿勢を正す。俺はカップに入った紅茶を見ながら、静かに呼吸を繰り返した。必死に俯いてはいるけど、自分の顔が赤く、そして熱くなっているのが分かる。この感情を何と表現したらいいのだろう。泣き出してしまいそうな、むず痒いような、煩わしい気さえするのに、それでも不快から一番遠いところにある。でもそれを、俺は絶対に知りたくない、知らないままでいたい、無意識の内に心の中でそう叫んでいる。
「どうしても、ご一緒が嫌なようでしたら仰って下さい。別のお部屋をご準備致しますので」
ティーカップを見つめたまま動かない俺にまた小さな声でこっそり耳打ちし、それに視線だけで頷くとエティは片付けを終えたマリアを引き連れて部屋を後にした。
静けさを取り戻した室内に、獅子雄の叩くキーボードの音だけが響く。獅子雄を見やると、険しい顔付きで液晶を睨みつけていた。首元のネクタイは緩められているものの、髪は依然きっちりと分けられ見慣れないそれはやっぱり気持ち悪い。ぼんやりとその顔を眺めていると、視線をあげた獅子雄と目が合った。逸らそうとも思ったが、何だかそうするのもおかしな気がして、結果的には見つめ合う形で落ち着いた。
「――で、学校はどうする」
先に沈黙を破ったのは獅子雄だ。
「見たところ、中学では中々の成績だな。これなら近くの私立にも少し勉強すれば苦労せずに通るだろう」
パソコンのマウスをかちかち言わせながら、獅子雄はそう言った。
「見たところって、どうやって見たんだよ」
まさかそのパソコンの中に、俺の情報が全て入っているとでも言うのだろうか。
「細かいことは気にするな。で、どうする? 今、試験を受けたら二学期には間に合う」
獅子雄に向けていた視線を目の前のテーブルに戻し、口をへの字に曲げた。どうするもこうするも、俺にだって色々事情があるんだよ。しかし中々そうは言えずに、両脚をソファへ上げて立てた膝の間に顔をうずめた。ちょうど、獅子雄に拾われたときと同じ姿勢だな、と気付く。たった数日前のことなのに、もう随分と昔のことのように感じられる。あの時拾われてなかったら、俺はどうなっていただろう。現金は底をついて、それこそ野垂れ死にしていたかも知れない。想像するのも恐ろしい最悪の結末だ。
「椿」
ソファが、ぎしりと歪む。獅子雄だ。
「おまえ、何を迷ってる」
「何をって、一言では言い表せない何かだよ」
「一言で言い表す必要はない。長くてもいいから、言え」
獅子雄はソファに深く腰掛け、その長い脚を組み静かに息を吐いた。俺が話すまでは動かないつもりらしい。
「……そりゃあさ、高校くらいは卒業したいとは、思う…………」
ぽつりぽつりと話し出す。きっと、執拗に迫られて、といった失礼な口ぶりだっただろう。
「でも、もしかしたら、」
そこで言葉を区切る。必死に言葉を探した。獅子雄は静かに待ってくれていた。
「もしかしたら、また捨てられるかもって、」
言葉を紡ぐのに時間がかかる。喉元までせり上がる苦いものを抑え、背筋の震えをぐっと堪えた。かたく目を閉じると、俺を置いて死んだ母親と病室で拳を振り上げた父親が脳裏に浮かんだ。
「おまえ、まだそんな事を言ってるのか」
獅子雄の呆れたような口振りに、俺は弾かれたように顔を上げた。
「そんな事って、何だよ…………」
息が上がり、唇が震えた。これは怒りだ。
「親だって、俺を捨てるんだ……。他人のおまえが、俺の面倒を一生見るって言うのかよ………」
「だから、俺は最初からそう言って――」
「――無責任なこと言うな!」
気づけば、俺は獅子雄に掴みかかっていた。
「いい加減なこと言うなよ。口ではどうとだって言える。捨てられる身にもなってみろよ、ゴミみたいに捨てられる、俺の身にもなってみろよ!」
そこまで言い終えると、嗚咽が漏れた。そうだ、俺は捨てられるのが怖い。こんなに俺を気にかけてくれる獅子雄も、眠る俺に優しく触れる獅子雄も、それがもし気まぐれだとするのなら、捨てられた瞬間に優しさは全て嘘に変わってしまう。だから俺はいつも警戒している。気を許そうとする自分を戒めて、傷つかないでいられる距離をいつだって模索している。いつでも獅子雄を嫌いになれるように、いつ獅子雄に嫌われたって、いいように。
「どうすれば良い」
そう呟く獅子雄の声は、冷静だ。涙で視界は歪んでいるけれど、きっと真剣な顔をしているのだろう。
「どうすればって………」
それは、余りにも予想外の言葉。
「どうしたら、おまえは俺を信用するんだ。俺は何をしたらいい。どうすればおまえは、ここで安心して暮らせるようになる」
獅子雄の胸ぐらを掴んでいた手から、力が抜ける。自身の膝に落ちたその手を、獅子雄が強く握った。
「椿」
真摯な声に名を呼ばれ、嗚咽はどんどん酷くなる。どんなに我慢しようと努めても、一度零れた涙はそう簡単には止まらなかった。堪らず俯こうとしても獅子雄がそれを許さず、空いた手で俺の顎をすくい無理矢理に視線を捉えた。
「椿、答えろ」
獅子雄が、俺を見ている。俺の瞳の、もっと奥の奥。魂まで見透かされてしまいそう。
「…………おまえ、本気かよ」
しゃくりあげ洟をすすりながら、俺は心の片隅で期待している。
「おまえが見極めろ」
そんな俺を見て、獅子雄は不敵に微笑んだ。顎から手を離し、そのまま涙まで拭ってくれた。
「俺は絶対に、おまえを捨てたりしない」
力強く、突き刺さるような声だった。
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