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第14話『久留須蛇岐』

○ 我妻椿(あがつまつばき)  広いわりに物が少なく寂しかった獅子雄の部屋が、ぐっと狭くなった。何故か。 「坊っちゃん、他に何かご入り用なものは御座いませんか?」  マリアがきらきらと眩しい笑顔でこちらを向いている。まさに今、俺の為の家具を獅子雄の部屋に運び込んでいる最中だ。正確には、俺と獅子雄の部屋に、だ。ふたり同室であることが余程嬉しいのか、メイドふたりは先程から嬉々として世話を焼いてくれている。先日運び入れたクローゼットとショーケースに加え、俺が強請った飲み物用の小さな冷蔵庫と、あって困ることはないだろうとエティが気を利かせて追加したアンティークの収納棚、そして何故か特注品の机と椅子。これも正確に言えば、俺が勉強する為の、だ。  結局、高校には通うことになった。先日の獅子雄の言葉は嬉しいけれど半信半疑、信じたいけれど手放しで喜べない自分もいて、せめて高校に通えばその間の三年間はこの屋敷を追い出されないだろうと高を括ってのことだ。中途編入まで短期間ではあるけれど一学期分の遅れを取り戻せば、過去問を見る限りでは試験も難なく合格できそうだった。 「坊っちゃん、予想以上に優秀ですわね。飲み込みも早いですし、今のところとても順調です」  短時間ですっかり部屋は様変わりして、さっそく勉強を見てくれたエティは深く感心しているようだった。自分で言うのもなんだが実際中学の頃の成績は悪くない。悪くないどころかむしろ良い方だったと言っていい。部活動をしていた訳でもないし、友人が大勢いた訳でも非行に走るでもない。そうなると、やることは勉強しか残されてなかった。その結果がこれだ。 「さ、今日のお勉強はこのくらいにしておきましょう。坊っちゃん、よく頑張りましたね」 「疲れた、ありがとう、エティ」  いいえ、とエティは浅くお辞儀をする。 「マリアも。部屋、片づけてくれてありがとう」 「とんでもない! ご用があれば何なりと」  ふたりは扉の前で深々とお辞儀をして出ていった。それを見送ってから、大きく伸びをする。 「疲れた………」  ペンを置き、参考書とノートを閉じる。勉強は嫌いじゃないが久しぶりにしてみると案外疲れる。脳みそもリハビリが必要らしい。椅子に深く沈み込み目を閉じてすぐ、がちゃり、とドアノブを回す音が響いた。振り返ると同時に扉が開き、綺麗に整えられた身なりにいつもの仏頂面で獅子雄が帰宅した。 「おかえり」 「…………ああ」  獅子雄は俺に一瞥をくれて、迷いなくまっすぐ自分のデスクに向かった。あの日以来、少しだけ距離は縮まった。と、思う。獅子雄は相変わらずの無表情だけど。 「今日はもう終わり? もうずっと家にいる?」  時刻は午後五時半。外はまだ充分に明るい。  社長業であるためなのか、獅子雄の帰宅時刻はいつも変則的だ。深夜に帰宅したり、真昼間に帰って来たと思ったら夕方にはまた出掛けたり。この間は明け方に出掛けた日もあった。服装だってまちまちで、気味が悪いほどきっちり正装して行く日もあれば、前髪も垂らしたままネクタイもせずに出掛けたりもする。その差が何か分からない。仕事内容も知らない。ただ、獅子雄を見送って、出迎えるだけの毎日だ。聞いたりしないし、話したりしない。 「今日は全部終わった」  獅子雄は鞄をデスクに放り、ネクタイを緩め銀縁の眼鏡も外した。そのままノートパソコンを立ち上げ、同時にワイシャツの胸ポケットから煙草を取り出す。一連の動作が流れるようでとても優雅だ。 「獅子雄」  煙草を咥え、バルコニーに出ようとする獅子雄を呼び止める。 「もう仕事ないなら、先に風呂行って」 「後でいい」 「いいから、俺が行けっつってんの!」  立ち止まった獅子雄に駆け寄り口から煙草をむしり取ると、訝しむ獅子雄の背を押しシャワー室へ向かわせた。 「おい、椿」 「うるさい、早くしろ」  獅子雄はさほど抵抗もせず俺にされるがままだ。半ば無理矢理シャワー室へ押し込みドアを閉め、そしてそのドアに背をつけ張り付いて、シャワーのコックを捻る音までを確認してその場を離れた。  綺麗に整えられた獅子雄は好きじゃない。否、好きじゃない、という表現は少し違う気がする。いつものだらしなく前髪を垂らした獅子雄に見慣れたせいか、その方が親近感が湧くというか、なんていうか、そうだな、愛着がある。そうじゃない獅子雄はなんだかよそよそしい。仮面を被っているみたい。同じ獅子雄なのに、違う獅子雄みたいだ。きちんと身なりを整えて誰に会っているのか、仕事中の獅子雄を俺は知らない。知らない獅子雄は、好きじゃない。  しばらくしてシャワーの音がやむと間もなくドアの開き、振り返ると腰にタオルを巻いただけの上半身を露にした獅子雄が出てきた。 「おまえ、服くらい着て来いよ!」  即座に身体を正面に戻す。  見てしまった、獅子雄の引き締まった腹筋を。バランスのとれた完璧な身体だ。ちっとも弛んでないし、俺みたいに平でか細くもない。同性の俺でさえ惚れ惚れしてしまう何とも羨ましい肉体だ。 「着替えも準備させずに風呂に押し込むからだろう、おまえが」 「それはっ……確かにそうだけど………」  正論だ、ぐうの音も出ない。背後でごそごそと衣の擦れる音がして、綿の白いハイネックの長袖に身を包んだ獅子雄が俺の隣に腰掛けた。八月も末、残暑も厳しいのに獅子雄はいつも涼しげだ。襟足の伸びた髪はまだ濡れている。この容姿は本当に目に毒だ。服を着た今でも、その白いシャツに隠れる肢体が容易に思い出される。これじゃまるで俺が変態みたいだ。 「おまえ、そのフェロモンちょっとどうにかしろ」  風呂上がりの湿った肌は、いい男の雰囲気が三割増しになる。 「なんだ、珍しく褒めてくれてるのか」 「褒めてねえよ。ムカつくっつってんの」  本当に褒めるつもりなどさらさらないけれど、同じ男として屈辱的とも言えるほど妙なフェロモンが垂れ流しだ。獅子雄のつやつやした黒髪が揺れて、その隙間からふたつの瞳がこちらを覗いていた。 (本当の本当に、褒めるつもりはないけど、)  でも、やっぱり俺はこっちの獅子雄のほうが良い。  見え隠れする双眼から目が離せない。髪と同じ色をした瞳。真っ暗で、まるで瞳の中に闇を飼っているみたいだ。その中にぽつんと、俺の顔が映る。生意気で勝気な顔をしている。だけど人一倍臆病だ。怖がりで、酷く弱い。そういう風に写っている。  獅子雄の瞳には、俺はそういう風に写っている。 「――椿」  名前を呼ばれ、頬に獅子雄の指先が触れて我に返る。急いで獅子雄の視線から逃れた。それは本能的だったと言っていい。そうしなければならなかった。そうしなければ、表面だけじゃない、身体の中、骨の髄まで、自分の知りたくない自分まで、獅子雄には見透かされてしまう。いや、今まさに、見透かされてしまった。そんな気がしてならない。 「やめろ」  頬に触れていた獅子雄の手を払い、顔を正面に戻す。尚も追ってこようとする獅子雄から更に逃れる為ぐっと固く目を閉じた。見ないでくれ。心の中でそう叫ぶ。これ以上、見られては困る。きつく封をして、決して開かないように、深く深く沈めている、誰にも見られないように。知られないように。それを見透かされるのが怖い。何の気なしに、不意に。獅子雄は見透かしてしまう。俺の、穢れていて恐ろしい、だけど大切なものを。  俺の肩に、獅子雄の長い腕がまわる。突然のことに思わず肩を揺らした。 「どうした」  心臓を鷲掴みにされて、苦しくて息が出来ない。 「どうも、しない」  どうにかそう返すのが精一杯だ。獅子雄の顔はすぐそばにあるのに、見つめられるのが怖くて目を合わせられない。その代わりに獅子雄の肩口に顔を埋めた。そうして、また目を閉じる。ゆっくり深呼吸をして、感情を抑えつけて、殺している。ゆっくりゆっくり、着実に、ひとつひとつ、殺していく。きちんと鍵をかけて、もっときつく封をして、もう二度と浮かび上がってこないように、心の奥底に沈めて鎖をかけて。 「大丈夫か」  獅子雄の心地よい声に耳を傾けながら、風呂上りの石鹸の香りを吸い込む。 「うん、大丈夫」  まだ、目は閉じたまま。 「だけど、もう少し」  どうかこのままでいさせて。  深呼吸を繰り返しながら、大切なものを闇に葬り去る。ずっとそうしてきた。隠してしまえば、誰にも見えない。殺してしまえば、誰にも盗られない。

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