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第15話
最後に深く息を吐き、顔を上げる。獅子雄はやっぱり俺を見ていた。だけど今度は見透かされない。
「あんまり見んな、クソジジイ」
悪態つくと何故か獅子雄は笑っていた。
「獅子雄はさ、父親似?」
ふと、そんなことが気になった。綺麗に整った顔。今みたいに少し笑えば女性的と言えないこともないが、いつもの人殺しみたいな眼孔と鉄仮面みたいな無表情は、きっと父親譲りだろうと踏んでいた。
「……いや、母親似」
予想外にも、獅子雄は決まり悪そうにそう答えた。
「まじかよ、その目も?」
「目も口も鼻も、性格まで。生き写しだ」
まじかよ、再び叫びそうになるのをぐっと堪える。あまり驚きすぎるのも失礼だろう。しかし信じられない。生き写し、と言うくらいだから父親の要素は極僅かしかないのだろう。獅子雄と同じ顔をした女、想像できないけれど会ってみたい気もする。きっと美しい女性だろう。
「………おまえは」
「へ?」
突然向けられた会話の矛先に一瞬戸惑う。まさか獅子雄が会話を広げてくるとは思わなかったのだ。いつも素っ気ない相槌しかしてくれないから、俺の話なんて聞いてるようで聞いていないものとばかり思っていた。そのため俺もたくさんのことは話さなかった。だから家族も仕事も、今までの人生も、お互い知らない。もう数日寝食を共にしているのに、俺たちはお互いのことを余りにも知らなすぎる。会話らしい会話は、きっとこれが初めてだ。
「……俺は、どちらかと言うと…………」
そう、これが初めてのまともな会話。だから会話を続けたいけれど、その内容に口が重くなる。頭で考えている内に二の句が次げなくなる。
家族の話は苦手だ。楽しかった思い出は、母さんが死んだとき一緒に葬った。だって思い出は苦しい俺を救ってはくれなかったから。母さんの死体と共に、大切だったはずの記憶も燃やしてしまった。優しかった父さんも、たぶん、一緒に燃えた。
「……俺も、母親似かな、たぶん。あ、母親って言っても、産んでくれたほうの母さん。ずっと昔に亡くなったからあまり覚えてはいないんだけど、たぶん………母さんに似てると思う……」
言葉尻は少しずつ小さくなっていった。言葉に嘘があった訳ではない。だけど自信がなかった。母親に似ているという自信は、なかった。それは願いに近かったから。
母親に似ていて欲しい。
俺は心の中で、首を横に振った。
母親に似ていて欲しい?
違う。
あんな父親に、似ていたくない。
そうか、と獅子雄は小さく頷いた。そしてそれ以降、俺に深く訊ねることはしなかった。以前に時永とエティが、獅子雄は優しい人だと言っていたのを思い出した。無関心で冷たい奴だとその時は思っていたけれど、もしかしたらそうではないのかも知れないと最近になって思い始めている。今だってそうだ。獅子雄は、人の痛みには触れない。それは今の俺にとっては救いだった。
「獅子雄の両親は、今どこにいるの?」
「俺に会社を譲ってからは、海外で隠居生活だ」
獅子雄が興味なさそうに答えるから、俺も、そうかとだけ呟いて、後はお互い自分のことについては話さなかった。取り留めのない話をしたり、面白くもないテレビを真剣に見るふりをしてみたり。その間もちらちらと獅子雄の横顔を盗み見た。最初の頃と違って穏やかな表情に見えるのは、こいつと一緒にいるのに慣れたせいなのか。たまに目があったりしたけど、静かに反らすと獅子雄も何も言わなかった。
暫くそうしてゆっくり過ごしていると、部屋の扉がノックされてエティが顔を覗かせた。
「あらあら、おふたりでテレビをご覧になるなんて、珍しいこともありますわね。言って下さればお茶をお持ちしましたのに」
エティは嬉しそうにくすくす笑っている。何がそんなに面白いのか。
「獅子雄様、坊っちゃん、お食事はこちらにお運びしてよろしいですか」
どうやらそれだけが用件だったらしく、俺も獅子雄も異論なく頷いた。程なくして運ばれてきた夕食をふたりで食べた。ふたりきりで食事をするのもこれが初めてだ。別段、会話が弾むこともなく静かな食卓だった。
それからは、いつもどおり。勝手に夜は更けて獅子雄はデスクに張り付いてパソコンと睨めっこだし、俺はソファに寝転んで本を読んだ。ふと時計を見ると二十三時を迎える頃で、読んでいた本を閉じ大きく伸びをして立ち上がる。
「風呂、行ってくる」
別にそう宣言する必要はないのだけれど、一緒に住んでいる上での礼儀というか、そうしなければならないという義務感にも似たものがあった。獅子雄の短い返事を聞き、俺は着替えを準備していそいそとシャワー室へ向かった。
ここ数日で、大分見慣れた室内、使い慣れたシャワー。慣れはすごい。初めて見たときは、あまりの豪華さに触れるのも躊躇ったほどなのに、今は当たり前みたいに使いこなしている。そう、慣れはすごい。獅子雄と共に過ごすことが当たり前だと思い始めている。今日だってそうだ。俺は獅子雄が帰宅するのを「待って」いた。まるで獅子雄は俺の許に帰ってくると、勘違いをしているみたいに。
はあ、とわざとらしく長く重たい溜め息が漏れた。大体、相部屋だってどうして承諾したんだろう。離れていたって何ら問題はないはずなのに。最近の俺は妙におかしい。俺だけじゃない、獅子雄だってそうだ。どうして同室なんて許したんだ。
(獅子雄は――)
どう思っているんだろう、俺のこと。
入浴を終えて部屋に戻ると獅子雄はバルコニーで煙草を吸っていた。大きく開け放たれたその扉から、生温い風が入ってくる。
「獅子雄」
バルコニーの入り口から、聞こえるか聞こえないかくらいの声で呼んだのに、意外にも獅子雄はすぐに振り向いた。そして俺の姿を確認すると手に持っていた灰皿に煙草の火を押しつけた。その姿を見てなんだかどうしようもなく堪らなくなってしまって、俺は室内履きのままバルコニーに飛び出して獅子雄の隣に並んだ。
「髪が濡れてる。風邪ひくぞ」
獅子雄の長い指が、髪にからむ。ほのかに煙草の匂いが漂った。
「………大丈夫、寒くないし」
八月も末間近、日中は残暑も厳しいが夜はだいぶ涼しくなった。シャワーで温まった身体には丁度いい。バルコニーの目の前には隅々まで手入れの行き届いた庭が広がり、静かに鳴く虫の声も聞こえた。街から少し離れているからなのか心なしか空も近い。分厚い雲に覆われていて、星は見えないけれど。
空を仰いだまま、目を閉じた。変な感じだ。こんなに穏やかな気持ちは、いつ以来だろう。ただ一日が過ぎ去るのをひたすらに待っていたあの頃とは違う。毎日穏やかで、満たされていて、たぶん俺、幸せって言っていい。
獅子雄、
「椿」
口を開きかけた俺より先に、獅子雄が沈黙を破った。それと同時に、俺の髪を梳いていた獅子雄の指に力が込められ、強く引き寄せられる。そして何を考える暇もなく、次の瞬間には獅子雄の顔が目の前にあって、キスされる、と気付いたときには既に唇は重なっていた。二、三度ついばむように口付けた後それはゆっくりと離れていった。
「………身体が冷えてる。もう部屋に戻れ」
獅子雄は俺から身体を離し、何事もなかったかのように再び視線を庭にむけた。
「うん……」
のろのろとした足取りで、素直にバルコニーを後にする。部屋に戻り後ろ手に扉を閉めた。振り返ると、獅子雄は新しい煙草に火を付けるところだった。吸ったことのない煙草の匂いが、鼻に残っている。吸ったこともないのに、やけに強く、鮮明に。
(………………)
唇だけがいやに熱い。数分前のことが鮮烈に思い出されて、脳内で何度も何度もリフレインする。獅子雄の骨張って長い指。近付いてくる切れ長の眼、煙草の匂いと、熱を持った唇。意外にも不思議と冷静だ。否、逆に混乱しすぎて何も考えられないだけかも知れない。
(……キス、された………)
よろよろとベッドに向かい全身の力が抜けたように倒れ込む。
獅子雄に、キスされた。
枕に顔を埋めて頭まですっぽりと布団を被る。きつく目を閉じれば獅子雄の顔が脳裏に色濃く浮かんだ。思わず目を開けても獅子雄が過ぎる。何をしたって頭の中は獅子雄だらけだ。かちゃりと、バルコニーと部屋をつなぐ扉の開く音がして思わず息を潜める。獅子雄が戻ってきた。俺は全身を耳にして獅子雄の気配を慎重に辿った。デスクの椅子が軋んで、しばらくしてからキーボードを叩く音がした。どうやら仕事を再開したようだった。
(何で……あいつ、急にあんなこと…………)
獅子雄がこちらに来ないことに安堵しつつも、答えの出ない問いに戸惑う。今更恥ずかしさが込み上げて、どうにも居たたまれない。起きていることを悟られないよう、浅く静かに呼吸を繰り返した。
やっぱり、俺はおかしい。
不快感はない。いきなりだったのに。しかも、初めてだったのに。やっぱり、俺は変になってしまったのだろうか。それとも獅子雄が容姿端麗な男だったから、誰をも魅了するであろう男だから、不快じゃなかっただけなのか。それにしたっておかしい、絶対に変だ。俺だけじゃない、獅子雄だってそうだ。
へん、へん、へん。こんなの変だ。こんなおかしいこと全部、絶対、獅子雄のせいだ。きっと絶対、そうに決まってる。
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