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第16話

「坊っちゃん、坊っちゃん」  優しく肩を揺すられて薄く目を開ける。視界に差し込む眩しい光が、ゆっくりと意識を覚醒させた。 「朝………」 「はい、おはようございます」  目の前には、朝陽に照らされてきらきらと光るベージュの髪。マリアだ。朝食を持ってきてくれている。 「……獅子雄は……?」  辺りを見回しても、見知ったあの顔は既になかった。 「つい先ほど、お出掛けに。今夜は遅くなるそうです」 「あ、そ」  のろのろと気怠い身体を起こす。全身が妙に重く気怠い。眠りすぎだろうか、頭もすっきりしない。しかしいつもどおりの朝。昨夜のことが夢に思える。もしかしたら、本当に夢かも知れない。そう思うのに、唇に残る感触はまだ新しく鮮明に焼き付いている。 「……坊っちゃん? お顔が赤いですわ」  マリアが心配そうに俺の顔を覗き込む。昨夜の出来事を思い出してか心なしか身体が熱を持った気がする。 「大丈夫ですか? お身体の具合でも………」 「いや、そんなんじゃない……と、思う……」  言葉尻は小さくなり、顔も少しずつ下を向いた。自分が今どんな表情をしているのか、ほんの少しだけ想像できる。きっと誰にも見られたくない顔をしているだろう。 「少し、失礼しますね」  その声に顔を上げると、マリアの白い手が伸びてきて俺の額に触れた。ひんやりと冷たくて気持ちがいい。 「まあ!」  声と同時に、マリアの腕が素早く引っ込んだ。何だと言うのだ。 「坊っちゃん、お熱がありますわ」 「へ?」  マリアは食事を置くと慌ただしく部屋を後にし、体温計と氷嚢を持って再び戻り、言われるがまま熱を計ると三十八度もあった。熱を自覚した途端全身の怠さは増し、食事もそこそこにベッドに逆戻りしてぐったりと寝込み、日が暮れるに連れ鼻水と咳も出だして医者にまで罹った。それもこれも全部、獅子雄のせいだ。そういうことにしておこう。丸一日を泥のように眠ることに費やし、夕飯も食べられずにすっかり夜は更けた。  ――誰かの近付く気配がする。熱が上がりきっているのか、意識はぼんやりしていて視界も不明瞭だ。ふわふわと身体が浮いているみたいだし、浅く吐く息も熱い。何者かが俺の枕元に立ち、大きな手がゆっくりと近付いてくる。包み込むように俺の頬に触れた。 「…………大丈夫か」  ――ああ、獅子雄。  まるで待ち望んでいたみたいに、その声にほっとする。冷えた長い指が頬を滑り、優しく髪を梳く。ああ、夜の獅子雄だ。優しくて甘い、夜の獅子雄。俺の夢の中の獅子雄。きっと、そう。これは俺の夢の中。 「獅子雄………」  ゆるゆると力なく手を伸ばすとすかさず大きな手が包み込み、あたたかな気持ちが胸に沁み渡る。 「……なんで、おまえ…昨日、あんなこと………」  獅子雄は俺の手を握ったまま、ゆっくりとベッドに乗り上げ俺に顔を近付ける。薄明かりの中、不明瞭な視界でも獅子雄が僅かに微笑んだのが分かった。 「……嫌だったか?」  訊かれ、小さく、それでもはっきりとわかるように首を横に振った。まさかそんなこと訊かれるなんて思っていなかったし、自分自身の返答にも内心驚いている。それでも意識とは別に口は勝手に言葉を紡ぎ出す。 「嫌、じゃない……嫌じゃないよ………」  握られていないほうの手で獅子雄の頬に触れると、夢の中のはずなのに感触はやけに現実的だった。陶器のような肌なのに、しなやかで、きちんと温かい。初めてのその手触りに自然と笑みが漏れた。すぐ傍に、触れられる距離にいるのが嬉しくて、堪らず小さく声に出して笑った。その俺を見て獅子雄も優しく笑ってくれた気がして、それに更に笑みを深めると今度はまるで今までもそうしていたみたいにキスをした。  獅子雄は俺の髪を撫で、頬に触れ、角度を変えて、何度も何度もキスをした。唇を優しく甘噛みされて、思わず息が漏れる。薄く生暖かい舌が俺の唇を開かせて、我が物顔で口内を蹂躙した。 「……っ、あ……ししお…っ……」  吐く息が熱い。それが高熱のせいなのか、獅子雄のせいなのか、もう判別がつかない。置いて行かれないように必死になって、俺は獅子雄の首に両腕を巻き付けてしがみついた。僅かに浮いた俺の背に獅子雄の腕が回り、より一層口づけは深くなった。  煙草の匂いがする。吸い込む空気は獅子雄の匂いしかしない。酷く嬉しかった。このまま溶けていきそう。そうだ、このまま獅子雄の匂いに溶け込めたら、それ以上に幸せなことなんてないのに。そんなことが頭に浮かんだ。 「………椿、」  唇が解放されベッドに沈められる。目尻に口付けられて初めて自分が泣いていることに気付いた。悲しいことなんか、ないのに。 「獅子雄………」 手を伸ばして、獅子雄の背に手を回す。無数に口付けは降ってきて、額、瞼、目尻、頬、耳、ありとあらゆるところに唇を落とされた。  長いことそうしていて、心地よさに微睡むと睡魔は一気に押し寄せた。キスの雨はやんで、獅子雄は俺の隣に横たわり俺はその胸にすり寄って目を閉じた。おやすみ、と囁かれたのを最後に、俺の意識は闇へ落ちていった。  次に気が付いたときには、既に朝だった。長時間寝たおかげか、昨日とは違い目覚めはすっきりとして頭も視界も澄んでいる。どうやら熱は下がったみたいだ。窓の外は燦々と晴れている、今日も暑くなりそうだ。カーテンを開けるため身体に力を入れるが、どうも思うように上手くいかない。腰に重りでも付けられている気分だ。 「!」  自身の腰に目をやって、はっとする。否、ぎょっとした。腕だ、腕が乗っている。俺の腰に男の腕が回っている。振り返れば、案の定獅子雄の端正な顔が間近にあり、俺の背に獅子雄の胸がぴたりと張り付いている。腕をはずそうにもぴくりとも動かない。 「おい、おまえ何して――」  昨夜を思い出す。昨夜見た『夢』だ。血が沸いたかのように見る見るうちに身体が熱くなり、そして身動きがとれなくなった。昨夜、俺は何をしただろうか。獅子雄は、否、俺たちは、何をした? (違う、あれは夢だ。夢に決まってる)  夢だったとしても、なんて夢を見ているのだと自分をなじってやりたいけれど。  恐る恐る獅子雄の顔を覗き見ると、閉じていたはずの目はしっかりと開かれていて黙ってこちらをじっと見ていた。その甘ったるく見たこともないような優し気な瞳に、ひい、と声にならない悲鳴が喉を掠める。そして俺は今更ながら何故か自らの身体を確認し、服を着ていることに安堵した。 「………どうした」  まるで恋人に囁くような濡れた声で訊かれ、俺は更に身を固くした。 「……き、きのう………」  確認するのも恐ろしい。訊くに訊けない。あれは夢だった、はずだ。 「昨日?」  不敵に瞳を光らせ、笑っている。 「やっぱり、何でもない。俺の夢の話しだからおまえに関係ない」 「……夢? どんな」 「――うるさい! おまえなんかに教えるかよ」 「妙な夢じゃないのなら教えてくれてもいいだろう」  獅子雄は俺の腰に回った腕に力を込めて更に引き寄せる。脱しようともがけばもがくほど、腕に込められる力は強くなった。 「離せ、セクハラくそじじいには教えねえ」  腕の中でじたばた暴れると、獅子雄は愉快気に喉を震わせた。熱は下がったはずなのに、昨日より増して身体が熱い。触れられている部分が、火傷したようにたまらなく熱い。獅子雄の髪が頬に触れるたび、煙草の匂いが鼻を掠めるたび、心臓が痛くて苦しかった。  その苦しさを誤魔化すように、その日から暇さえあれば勉強に励んだ。そうしている間は余計なことなど何ひとつ考えずにいられる。その間だけは現実を見ずに済む。その現実逃避のおかげか、数日後の編入試験では全教科ほぼ満点を叩き出し、無事に九月の入学が決まった。

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