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第17話

「坊っちゃん、よくお似合いですわ」 「まあ、本当に素敵、素晴らしいですわ」  いつもより早い朝、いつもより豪華な朝食、いつもより張り切るメイドふたり、いつもよりにこやかな時永。 「さっさとしろ、行くぞ」  いつもどおりの獅子雄。 「ああ、眠い」  真新しい制服を身にまとい、いつもどおりを装う、俺。  あの日以来、俺と獅子雄の関係は特に変わりなく、俺は勉強に明け暮れたし獅子雄は仕事で忙しく、共に食事もしていない。朝起きると隣に獅子雄が寝ていることもしばしばあったが、だからといって何かある訳でもない。俺は今日から学校だし、獅子雄は相変わらず仕事仕事の毎日だ。初めての登校に多少の緊張はあるものの、不思議と不安はない。今までの暇を持て余した生活が終わるかと思うと、これからが楽しみにすら感じた。 「では獅子雄様、坊っちゃん。お気をつけて行ってらっしゃいませ」 「え、時永さん、一緒じゃないの」  いつもなら常に獅子雄と行動を共にする時永が、今日は屋敷の入り口に立ちメイドふたりと並んで暢気に手など振っている。 「本日は獅子雄様の計らいで、(いとま)を頂いております。さあ、遅刻をしてしまいます。お気をつけて」  さあさあ、と時永は尚も俺をしつこく促す。 「椿、もたもたするな、乗れ」  見ると獅子雄は車のドアを開けて運転席に乗り込むところだった。 「え」  獅子雄が運転できるなんて知らなかった。いつも後部座席でふんぞり返っているから。意外ではないけれど、変な感じだ。 (まじかよ……)  しかし今はそんなことより、狭い車内に獅子雄とふたりきりになることのほうが重大な問題だ。学校よりそっちが緊張するくらいだ。 「おい、何度も言わせるな」  獅子雄の不機嫌な声が飛び、思わず顔をしかめる。 「……………」  緊張したのが損みたいだ。何なんだ、こいつは相変わらず本当に腹の立つ野郎だ。やはりあの夜の獅子雄は夢だった。こんな短気な鉄面皮が、あんなに優しくなるはずない。すべては幻、きっと幻だったのだ。  助手席側の扉を開き、どかりとシートに座り無言でシートベルトを締めた。何やら妙にむかっ腹が立ってきた。俺ひとりだけドキドキして緊張したり、いくら夢とはいえ嬉しいと思ったり。本当に腹が立つ。人の気も知らないで、この男ときたら。 (……………………)  そうだ、本当に、俺の気も知らないくせに。獅子雄の行動に振り回されるこっちの身にもなって欲しい。  車は静かに発進した。思いの外スムーズで丁寧なハンドル捌きだ。ちらりと横顔を盗み見る。獅子雄は真っ直ぐ前を向いて、無言で車を走らせた。  ちりちりと胸の辺りがざわめく。俺のことを気にも留めていないような、その態度が気に入らない。自然と大きな溜め息が漏れ、つまらない気持ちで窓の外を眺めた。屋敷のある山を抜けると、ちらほらと人影が多くなり、その中にこれから通う高校の制服を来た生徒たちも数々目についた。 「椿」  前触れなく呼ばれ、ぴくりと肩が跳ねる。 「なに」  平静を装ってみても、わずかな嬉しさが声に滲み出ているのが自分でも分かった。感づかれないよう恐る恐る獅子雄に向き直ると、獅子雄も横目で俺を見た。 「……なんだよ、何か用かよ」  無意識に喧嘩を売るような物腰になってしまう。しまった、と後悔してももう遅い。 「帰りは迎えに行くから、終わったら連絡しろ」  えっ、と弾んだ声が出る。 「獅子雄が? 獅子雄が迎えに来るのか?」 「ああ、そうだ」  まじかよ、と思わず身を乗り出すと、僅かながらに獅子雄が微笑んだのが分かった。それを見てまた気分が高揚する。 「仕事は?」 「それまでには切り上げる」  俺は何度も激しく頷いて前に向き直る。学校が見えてきた。数分前とは打って変わって、今度はわくわくと心が躍りご機嫌に飛び跳ねた。学校が楽しみだからではない、帰りが待ち遠しいのだ。まだ始まってもいないのに、もう終わりを意識してこんなにも楽しくなってしまう。仕事のついでに、送迎をしてくれているだけ。そうは分かってはいるけれど、しかし嬉しいことに変わりはない。手の甲でごしごしと熱くなる頬をさする。このまま学校へも仕事へも行かず、何処か遠くへ行きたい。そんなことさえ思った。 (――蝕まれているのは、俺のほうだ)  校門までの広い道路を走っていると、前方から大きく手を振る男がいた。遠目から見ても派手な男だ。偏差値の高い学校と聞いていたから、真面目で勉学一辺倒な奴らばかりが通っているのかと思っていたけど、不良なんてものはどこの学校にも生息しているらしい。しかし俺にはまったくの無関係だ。  そう思っていたのに車は見る見るうちに派手な男に近付いて、あろう事か男の真横でぴたりと停車した。それも運転席側でなく、助手席側に男は立っている。 「えっ、ちょっと」  動揺し、ハンドルを握る獅子雄の腕を掴んだ。それと時を同じくして、男が助手席の窓をこんこん、とノックした。 「誰? 知り合い?」  シートベルトをしたまま、できる限り獅子雄に身を寄せていると獅子雄はそうだと頷いて窓を開けた。 「お疲れ様です、獅子雄さん、久しぶりっすね」  相変わらず顔死んでるー、と男はゲラゲラ笑っている。獅子雄はそんな言葉を気にも留めてないようで、ああ、と短く返事をした。 「で、そっちの子猫みたいな可愛い僕ちゃんが、噂の椿姫ね。よろしくよろしく」  男は、その大きな手を車内に突っ込み俺に握手を求める。俺は獅子雄の腕に縋りついたまま、訝しむ視線を男に寄越した。獅子雄に対してならともかく初対面の俺に対しても、この男はフレンドリー(と言えば聞こえはいいが)開けっぴろげに言ってしまえばとても失礼で不躾だ。  男は黄金(こがね)色に染まる短髪を後ろに流しきっちりと固め、目尻眉尻、鼻の横と口の下、耳には無数に、顔中いくつものピアスが飾られていた。そして男が口を開く度、その舌の中心にはめ込まれた大きなピアスがぬらぬらと鈍く光った。細い目の中に光る瞳は極端に小さく、腕や首に何重にも巻き付いているシルバーアクセが鱗のようでまるで蛇さながらだ。 「ほらほら僕ちゃん、さっさと車から降りて、一緒に学園生活を謳歌しようぜ」 「は?」  蛇男はアクセサリーをじゃらじゃら言わせながら、助手席の扉を開ける。 「いや待て、今、何て言った」  俺は視線を蛇男から獅子雄に移す。そして握っていた腕を強く揺さぶった。 「どういうことだよ」  訊ねれば、あらら、と蛇男が呟いた。 「椿、詳しいことはこいつから聞け。何かあれば連絡しろ、いいな」 「良くねえよ、人に押しつけんな。おまえが説明しろよ、こいつ、誰だよ」  獅子雄は前を向いたまま状況を説明する気は一切ないようで、背広の内ポケットから煙草を取り出し一本口に咥えた。その態度に、一気に頭に血が上った。獅子雄は俺の前では煙草を吸わない、これは暗に降りろと言われている。 「おまえ、本当に嫌い! むかつく」  握っていた獅子雄の腕を強く叩きつけ、乱暴に車を降りた。 「椿、終わったら必ず連絡しろ」  そんな俺の態度を気にも留めず、獅子雄は言いながら煙草に火を着けた。その様子に更に怒りはこみ上げる。有りっ丈の力を込めて助手席の扉を閉め、窓越しに獅子雄を睨みつけた。 「いちいちうるせえな、保護者面してんじゃねえよ」  そう吐き捨て、獅子雄の反応を見る間もなく前に向き直り校舎に向かって早足で歩いた。  はらわたが煮えたぎるほど怒り心頭で、地面を蹴りつけたい気持ちに駆られた。いったい何なのだ、あいつは。優しくしたり無反応を決め込んでみたり、いちいち俺を苛つかせる。あいつの行動ひとつひとつに一喜一憂してる俺自身にも嫌気が差す。  俺は眉間のしわを更に深くし、地面を強く踏みしめながら歩を進めた。 「あらまあ、獅子雄さん。思春期のお姫様も大変ですねえ」  蛇男はそんなことを言いながらケラケラ笑っている。それにも余計に腹が立つ。初対面のくせに人を馬鹿にしたような態度をしやがって、あんな奴と一緒に学校生活を送るなんて、真っ平ごめんだ。背後では獅子雄の車の遠ざかる音がし、それと反比例し蛇男の足跡がぐんぐん近付いてくる。それを無視して更に早足で歩いても、コンパスの違いなのかあっという間に捕まった。 「はあい、僕ちゃん」  背後から手首を捕まれたかと思うと、蛇男は肩まで抱いてがっちりと俺を捉えた。振りほどこうと身体を揺すっても、びくともしない。 「まあまあ、そんなにカッカしなさんな」  獅子雄の前とは打って変わって、おちゃらけた様子のない蛇男に不信感を感じて思わず振り返る。思いの外、近くにあった蛇男の顔に大きく肩が揺れた。  鋭い眼光。「普通」じゃない。  獅子雄のそれとはまた異なった、妙な感じだ。身長も恐らく百九十センチを越えている。だらしなく着崩された制服の下には生白い肌に似合わず分厚い筋肉がついていて、贅肉などほとんど見受けられない。  「普通」の奴じゃない。俺の本能がそう告げる。有無を言わせないその威圧感に身体を強ばらせ、抵抗する気がないことを目で訴えると蛇男は満足したように笑った。

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