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フラグメント 2

 残業をして帰宅する頃には二十時を過ぎていた。呼吸をするはしから白い息がたなびき後方へと流れる。住宅街はさすがにクリスマスの喧噪とは隔てられ、静かな夜に沈む家々はミニチュアの家屋の並びのようだった。  早雲アパートメントという全六階建て集合住宅の三階に、朋坂の住居はある。比較的築年数も浅く、最寄り駅からは少し遠いけれど洒落た雰囲気のきれいな洋風アパートで気に入っていた。  スーツのポケットから鍵を取り出し、リングを指に引っかけてくるくる回しながらエレベーターに乗り込む。肩が重だるく、自然と意識はマーテルの爪に引き裂かれた傷に持って行かれる。傷跡も痛みもないけれど、あのときの感覚はありありと思い出せた。 (彼が突き飛ばしてくれなかったら、死んでいたんだよな……)  痛みは思い起こせるのに、あれほど近くに感じていた〝死〟の感覚は一晩経ってすっかり遠のいている。いまでも、昨晩のことは夢の中での出来事のように感じてしまうのだ。そんなわけはないと昼間のそば屋でメディアを通して確信したというのに。  チン、という小気味の良い音と共にエレベーターが到着し、細かな水泡のように沸き立つ思考を切り替えた。俯きがちに歩いて部屋の鍵を開ける。無人の、冷たく冷え切った冬の匂いがした。 「郵便は……」  明細書やダイレクトメール、チラシなどをパラパラと捲り、重要なものはないと察して小さな靴箱の上に投げた。ふぅと息を吐いて靴を脱ごうとしたとき、ドタドタドタッとドアの外で大きな足音がして思わず肩が跳ねる。こんな静かな夜に騒ぎ立てるような住人は、このアパートにはいない。  ピンポーン、ピンポン、ピンポンピンポン……  ものすごい勢いでベルが連打されている。 「ちょ、ちょっと何なんだよ、こんな時間に……っ」  男やもめとは言え、深夜の突然の執拗なチャイムは心底怖い。ましてや、帰宅直後とくれば恐怖もひとしおだ。 (後ろを付けられていた? いや、まさか)  なおもしつこく鳴るチャイムに焦りながら、朋坂はそっとのぞき穴に顔を寄せた。そして相手の姿を確認するや否や、扉を開けて腕を掴み、力任せに引き入れる。 「どうして君がここにいるんだッ」 「いて、痛いって……っ!」  掴んだ手を身体全体で振りほどき、猫のように息を荒げているのは金髪の少年だ。首に巻き付いているチョーカーにはピジョンブラッドの特大チャームがぶら下がっている。少年の荒い呼吸に、赤い宝石もゆらりと緩慢に揺れた。少年が着込んでいるパーカーには海外アニメのキャラクターが細々とプリントされており、夜気に慣れた目には少々鮮やかすぎる。視界に入るだけで目がチカチカした。 「どうして、俺の部屋を知っているんだ?」  言い含めるように区切りながら同じ問いを繰り返すと、少年はちらりと背後のドアを気にする素振りを見せた。 「ライオも……」 「うん?」 「ライオも、入れていい?」  訝しがる朋坂に知らしめるように、ドアにかつんかつんという小さな衝突音がした。何かがぶつかる音、おそらくは……。ため息を吐いてドアを開けると、申し訳なさそうに佇むドクロがいた。相変わらず赤い宝石を咥えている。 「ハァ。……いいよ、入っても」  くるんと回転しながら入室する様は不気味だが、喜んでいるようにも見えた。少なくとも害を成す存在には見えなくてほっと一安心する。不気味だけれど。 「で、どうして来たの? 今日はバイトお休みなの? そもそも、どうしてこの場所が分かったの、それにこんな時間来るなんて……」 「うーるーさーいなぁ。一個ずつ!」  両手で耳を覆う仕草をする少年にカチンと来た。けれど、その背後でドクロがおろおろと身を左右に揺らしていたので、結局は毒気を抜かれてしまい渋々頷くしかなかった。少年は狭い上がり框に我が物顔で腰を下ろし、重そうなブーツを不器用に脱ぎながらのらりくらりと質問に答え始める。 「バイトは休み。場所が分かったのは、ライオの生体センサーのおかげ」 「生体センサー?」 「マスター限定で、居場所を検索して追跡できんの」 「マスター?」 「次、なぜ来たのか。一緒に住ませて貰おうと思って。もう俺の部屋解約したし」 「うん。……………………、はぁっ?」  朋坂の疑問に答える気はないのか、少年は矢継ぎ早に言葉を募らせ、最終的に衝撃的な言葉の爆弾を投下した。 「ちょっと待って、待って、混乱してる。一緒に住むって、何?」 「家賃、はんぶんこの方が良いっしょ。襲撃があるたびにいちいちアンタを探して魔力を貰うのも面倒じゃん? それなら、最初から一緒に居た方が良くねえ?」 「良くねえ? って、全然よくないよ。もう少し説明してよ。あぁ、頭が痛い。とりあえずその、俺のことを“マスター“って呼ぶの、なに?」 「契約したじゃん、俺と」 「いやいやいや、いつ? してないよ。してないって」  眉間を押さえる朋坂に、少年は呆れたように軽く息を吐いた。むっとしているようにも見える。ドクロは心配そうにふらふらする速度を速める。 「とりあえず、上がって。一回、腰を据えて話そう。俺も聞きたいことたくさんあるし。……いいね?」 「だから、最初からそう言ってんじゃん」  先導して歩く朋坂の背に、少年はなおも悪態を吐いた。やけに白熱灯の白い光が瞳を灼く。偏頭痛の兆候だ。  二人の前には、湯気を立てるカップが二つ。朋坂の前には熱い紅茶が、少年の前にはインスタントのカフェラテが置かれている。 「順を追って話そう。まず自己紹介ね。俺は、朋坂頼世。君の名ま……」 「トモサカヨリセ? ヨリセって言いにくいな。ヨリでいい?」 「…………。あー、……うん。いいよ」  いきなり出鼻を挫かれるも朋坂は負けなかった。テーブルに両肘を突いて顎を支え、三白眼で見上げてくる少年と視線を交わらせた。  コンビニで店員と客として接していた頃とは印象ががらりと変わる。店員の時の彼と、夜を駆ける魔法少年の彼。そして、いま目の前にいる、すべての肩書きを取り払った裸の彼。少年らしいあどけない仕草に戸惑う。部屋に上がって早々、「スマホの充電切れそう~」と勝手にコンセントを占領し始めたのには少々面食らったが。 「俺は九吹(くすい)祥馬。こっちはライオネル。俺の〝アーク〟」 「アーク?」 「いろいろ、俺のサポートをしてくれる相棒。の総称? かな。ライオみたいなのをまとめて〝アーク〟って言うらしい」  ちっとも合点のいっていない表情で、朋坂はとりあえずふぅんと相づちを打った。魔法少年のお供、というものだろうか。紹介されたライオネルはすこし得意げだ。ドクロなので表情は分からないが、なんとなくそんな気がした。 「みたいなの、ってことは、ほかの魔法少年たちもお供を連れてるんだ?」 「ってこと。蛇みたいなのとか、鳥みたいなのとかいっぱいいる。ま、俺のライオが一番カッコイイけどな」  九吹の言葉にライオは大きく一回転した。これは確実に喜んでいる仕草だ。 「九吹くんはライオネル……、の言いたいことが分かるのか?」  声を発している素振りすらないが、昨夜の感じから二人が完璧な意思疎通をこなしているように思えてならなかった。少年は当然と言わんばかりに頷いた。 「分かるよ。俺が初めて変身したとき……だから、三年くらい一緒にいるし。ふつうの人がしゃべっているように、俺にはちゃんとしっかり聞こえてる。多分ほかの魔法少年たちもそうだと思う。ライオの声は、やさしいよ」  やさしい、と口元を緩める彼の声音こそが優しかった。朋坂はどう返していいか分からなくなり、咳払いをして会話を切り替える。 「じゃあ、マスターってのは?」 「そのまんまだよ。魔法少年……って言うの、いい加減イヤなんだけど。正確には〝アルマ〟っていうの、俺たちの間では。アルマはマスターから与えられた、〝痛い〟だとか、〝イヤだ〟っていう感情を魔力に変えて蓄えることが出来るんだよね。この宝石に」  そう言って、九吹はライオネルが咥えている赤い宝石を指さした。 「アークが持っている宝石に溜められた魔力は、増幅されて洗煉されて、俺たちアルマの、この首輪に付いてるクリスタルに送られる。アークが持っている宝石が親機で、俺が持っている宝石が子機みたいな役割な……んだけど。――――ここまではおっけ? ヨリ、理解してるかぁ?」  眉間をぐねぐねと押し潰さん勢いで考え込み頭を悩ませる朋坂の顔をのぞき込み、九吹は困惑するように言葉を止めて窺った。 「正直、全然ピンとこない」  たっぷり迷ってぽつりと零し、朋坂はゴメンと素直に謝った。昨夜の戦いですら漫画の世界だったのに、もはやそれを通り越してエスエフそのものだ。魔法少年がアルマという名称を冠しているということもメディアでは一切報道されていないし、国家沈没レベルの未曾有な大危機にしては、市民に向けて発信される情報が少なすぎる。〝マスター〟という、アルマに直接的に関わる一般市民がいるということさえ、ファミリア出現以降はじめて知る事柄だ。そうなると、最も多くの情報を管理して研究しているであろう政府直属本部が観取しているかもあやしくなってくる。ただ単に報道されていないだけかもしれないが、不透明すぎるファミリアとアルマという未知の存在や、それに纏わる何もかもが途方も無い夢幻のように思えてならなかった。  しかし、朋坂はなんとか疑問を飲み下し、何度か頷いた。 「でも、……昨日、実際に近くで見たもんな。そういうものなんだろうな」 「そうそう。そういうものなんだーって思ってるだけでいいし。俺もライオに何回も説明されてるけど、全然わかんねえし。で、今度はマスターについてだけど……」  ぐでん、と半熟の白身のように机の上で上体を溶かす九吹は、ちらりと目だけで朋坂を見上げた。三白眼が強調されて、くすみ一つない白目が白熱灯の光を受けて妖しく光っている。 「マスターはアルマを虐めるだけの存在。そんで、ヨリはぁ……、俺のマスターになったんだもんな」  嘲るように言い放つ口調に、床に突いた朋坂の手がびくりと動いた。 「俺は、……そんなものになったつもりはないぞ」 「なってるよ。俺のクリスタル、ヨリの色になってるし。それに、俺にも分かる。ヨリが俺のマスターになったんだって」 「そ……、」  言葉に詰り、不自然な間が生まれた。九吹がとろけさせていた上体を起こして、だるそうにカップに唇を付けた。喉が鳴る音が静かな部屋に響く。  確かに、彼のチョーカーにぶら下がっていた特大のクリスタルは、はじめは無色だったのだ。うす青い月明かりを浴びて醒めた色を浮かべていた透明なクリスタルは、朋坂の血を受けて赤く熟れた。まるで朋坂の血液を、受け入れと云わんばかりに。 「……寒っ。暖房、効かねえじゃん」  独り言にも反応できず、ただ黙ってリモコンに手を伸ばして温度を上げる。九吹はそれに対して何も言わない。当然のように、稼働音を増すエアコンの熱風を全身に受けてあくびを零すだけだ。 「……俺は、どうなるんだ」  ついに呟かれた朋坂の声に、九吹は宙を見やる。 「どうって?」 「俺は、お前と一緒に戦うのか? あんな化け物と?」  無理だ、と続けようとする声を遮り、可笑しそうに鼻で笑われる。俯いていた面を上げると、彼は短い眉を寄せていた。嘲りは一瞬のことで、憤慨しているようにも見えた。 「一緒になんて、無理でしょ。邪魔すぎ。ヨリは何もしなくていいから、ただ俺を殴って、俺の電池になってればそれでいーの」  胸に強烈な灼熱感を伴う不快感がこみ上げてくる。確かに邪魔になってしまう自信はあるし、実際昨夜だって戦う彼の後ろで突っ立っているだけだった。ただでさえ大量に産み落されるレモラの大群に一人で挑むのだから、足手まといの保護対象がうろちょろしていたら彼も戦いにくいだろう。けれど……。 「俺は、頭ごなしにそう言われて何も否定せず、ただ君を殴るなんて絶対に無理だ。俺は、……俺は昨日だって……」  九吹の頬を拳で打った感触を思い出し、右手がぶるぶると震える。震えて震えて、その手で前髪をくしゃりと掻いた。やわらかな頬が圧力に歪む感触、歯がみしりと軋む感触、よろめいた年下の正義の味方、唇から垂れた血――……。 「ヨリ……?」  胡乱に、九吹の瞳が揺れた。戸惑っている。まるで否定される事を想定していなかったような狼狽えっぷりに朋坂は表情を歪ませる。 「君を……、九吹くんを痛めつけることでしか力になれないのなら、俺は君のマスターにはなれない。すまないが、ほかを当たってくれ」  空になったカップを片付けるために立ち上がると、はじめは呆然としていた九吹も徐々に表情を歪め、苦い顔をして朋坂に掴みかかった。 「……っ!」 「お前までっ、――さんみたいな事を……ッ」  強く力を込めて握られる腕に顔を顰めていると、九吹は俯いて、長く垂れた前髪から生まれる影の中で唇をわななかせていた。だれかの名前を呼んだ気がするのだが、重く垂れ込めた声は朋坂には判別できなかった。 「今まで俺がともにいたマスターは、全員死んだっ! 全員ファミリアに殺されたんだよ……っ」 「全員……?」  九吹のただならぬ勢いに圧され、朋坂は口を押さえて瞳を揺らした。暗い避難先で、そしてメディア越しに眺めていた惨状の裏には、誰も知らぬ隠匿された誰かの犠牲があった。考えてもみなかったことだ。知るすべすらなかった。 「ファミリアはアルマの魔力を断絶するために、まずマスターを狙うんだよ。奴らにはライオと同じ、探知能力が備わっている。だから俺たちアルマは魔力の源を護るため、マスターの盾になる。そんでマスターは護られるためにアルマを痛めつけて魔力を補充し続けないといけねぇんだよ」  朋坂の喉仏が上下し、乾く唇がうっすらと開く様を見止め、九吹はようやく手に込めていた力を抜いた。 「……契約解除の、方法は……」  庇うように腕をさする朋坂の瞳はうつろだ。上がりきった部屋の温度に煽られてか、それとも自分の逃げられぬ立場を悟ってか、こめかみがきらきらと汗ばんでいる。  九吹は力を込めすぎて痺れる指を何度か握っては開き、視線だけで朋坂を見やった。 「そんなものは、無い」  絶望を叩き付けるための言葉は、部屋の温度に似つかわしくないほどに凍てつく冬の呼気に彩られていた。

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