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フラグメント 3
チン、と小気味良い音が鳴り、朋坂は重い腰を上げた。コンロよりよっぽど使い込まれている電子レンジを開ける。もわりと湯気が立ち、甘辛い匂いが一気に湧き出た。
「ほら」
あたためすぎて変形したポリスチレンがぐにゃりと不格好に固まっているが、九吹は特に不平を言うわけでもなく「ありがと」と素直に受け取った。テーブルの隅っこで邪魔にならないように置物と化しているライオネルが、興味深そうに湯気を立てるチキンをのぞき込む。頭蓋骨しかない物体だけれど、食べ物を摂取することができる、……のだろうか……? 朋坂のぶしつけな視線に込められた疑問を感じ取ったのか、ライオネルはふるふると頭を振って否定した。安堵する。さすがに、肉を食べる頭蓋骨の絵面はいささか怖い。
「ほんとに二つとも俺が食っていーの? ヨリは?」
「俺はいいよ。九吹くん、ハラ減ってるだろ。皿とかナイフとかいる?」
「いらね。手で食う」
二杯目のコーヒーを淹れてキッチンから戻ると、九吹は大きな口を開けてチキンにかぶりつくところだった。対面に腰を下ろし、テレビを点けて適当にチャンネルを回すが、どこもかしこも一様にクリスマス特集を慣行しており、そこでようやく今日がクリスマスだということをぼんやり思い出した。季節などという瑣末なものなんて、うわすべりしてしまう。九吹に説明された〝ルール〟が頭から離れない。イルミネーションのちかちかした電飾の灯りが、画面越しでも目に刺さる。
チキンは九吹が買ってきていたものだった。玄関に置きっぱなしになっていたのを朋坂が見つけた。これ、とビニール袋に入ったそれを掲げると、「忘れてた。食っていーよ」と興味なさげに一瞥しただけだったが、彼の腹が鳴ったので温めて与えることにした。チキンはパックに二つ、仲良く詰められていて、一応は手土産として持ってきたのだと察した。クリスマスだと思い至ったのかは定かでは無いが、すくなくとも一緒に食べようと思って買ってきたのだろうと推測すると少し切なくて、少年のあっけらかんとした粗暴で強引な言動とのギャップに心が揺れた。こんな少年に暴力を振るう運命を課せられたなんて、気が滅入って仕方が無い。
「ティッシュ」
「はいはい」
ティッシュ箱を受け取りながら、九吹はじっと朋坂を見詰めた。
「――――呼び方、くん付けじゃなくていいし」
「え? ああ……そう、か」
しかし、突然そう言われてもそうですかとはならないのが、朋坂の性格だった。ファーストコンタクトよりもずいぶん慣れてはきたが、やはりまだ圧倒される。
「と言ってもねえ……。くすい、って名字で呼び捨てるのもすこし冷たいような気がするし」
「べつに、祥馬でよくね? 俺はそれでいいけど。ライオもショーマって呼ぶし」
な、と九吹はライオに同意を求め、骸骨も律儀にこくんと傾く。
「そうなんだ……。うん、じゃあ、祥馬。って、呼びますね」
「なんで敬語」
九吹は大きなローストチキンを二つきれいに平らげ、満足げに腹部を撫でた。
「ふー……、腹一杯。眠くなってきた」
「それはよかった。で、本当にうちに住むのか?」
朋坂が問うと、眠そうな目を巡らせて鬱陶しげに首を撫でた。
「もう荷物まとめてきたし、部屋も解約したんだって。おれコンビニのバイトしかしてないし稼ぎもないから、いま追い出されたら困るんだよ。すこしくらいならお金も出すしさ、小遣いを強請ったりとかはしねーから」
「うぅ……ん」
寝る場所や共同生活において、互いにストレスなく過ごすためのルールを設定する必要がある。恋人と同列に考えるのはおかしな話だが、朋坂はいままで付き合った彼女らとも同棲をした経験がないので、どうも同居には気が進まなかった。元々ひとりが好きなたちだ。他人が立てる生活音の中で暮らす感覚というものに消極的になってしまう。その様子を見抜いてか、九吹は首を傾げた。
「ヨリってもしかして、潔癖症だったりすんのか? 風呂とかさ、同じお湯がいやだったら、コインシャワーとか銭湯とかぜんぜん行くし。おれ、特に生活にこだわりとかねーからこうしてああしてとかも言わねーよ? 寝てる間に襲撃があったら困るから、夜は部屋にいさせてほしいけど」
ずいぶん献身的な物言いと譲歩に、朋坂は心底驚いた。昨夜暴れまくった、レモラを便所虫と恫喝する魔法少年と本当に同一人物なのだろうかと疑いたくなるほどだ。生活音がどうのこうのと気にしていた自分がこの上なく矮小な人間に思えてしまうほどの身の落とし方におろおろと戸惑う。
「いや、そこまで小さくならなくもいいよ。普通にしてくれたらいい」
慌ててそう述べると、九吹の三白眼がきらりと光った。にやりと口角が上がる。やられた。
「じゃ、そーするっ。明日土曜だし、ヨリも休みだろ? ベッドとか買いに行こうぜ。おれ床じゃ眠れねーんだよなぁ。ついでにこのテーブルももう少し大きいのにしねぇ? 二人分の食器とか並べるにはちょっと狭いよな! あとライオの座布団も欲しいし!」
「え、ちょ、ちょちょ、ちょっと待って。ベッドなんてどこに置くの。そんなスペースないって」
「なんで? ヨリのベッドの隣におけばいいじゃん。さっきトイレ行くついでに奥の部屋も見たけど、ベッド二つくらい置けそうだったよ」
「お、同じ部屋で寝るのか……?」
「なんで? いーじゃん。おれ、いびきかかねーし、一度寝たらちょっとやそっとでは目ぇ覚まさないから、ヨリのいびきがうるさくても寝言がうるさくても気になんねーし」
「いや、俺もそんなうるさくないと思うけど……、はぁ」
一応弁解をしてから、朋坂は大きく重いため息をはいた。もはや何を言ってもどう反発しても、きっと彼はここに住む気だ。揺るぎない。やり方は強引だが、彼は隣にいてファミリアの襲撃から護ろうとしてくれている。それもまた揺るぎない事実だろう。苦笑して、朋坂も腹をくくった。こんな真冬に、未成年を放り出す度胸がないというのももちろんあるけれど。
「しょうがないな。先に言っておくけど、俺は料理はできないからね。それと、靴はきちんと靴箱にしまうことだけはお願いするよ。大きな家具を増やすときは相談を。住所変更の手続きは月曜にしてきてね。分からないことがあったら電話して。あと……」
「まだあんのぉ?」
たいして要求はしていないと思うのだが、九吹はうんざりと頬杖をついてわざとらしく大きな息を吐いた。これからが重要だ、と朋坂は彼に向き合って真摯に見詰めた。譲れるものと、譲れないものはある。
「やっぱり、俺はきみに暴力を振るうことはしたくない。他に手立てがないか、一緒に見つけよう」
「………………」
怠惰な表情が一気に憮然としたものに変わる。嫌悪感すら抱いていそうな感情を顔の表面にありありと乗せ、ご丁寧に舌打ちまでしてくれた。かっかっと伸びた爪がテーブルを叩く。苛立っている。
「大丈夫だって。俺がブン殴る前も十分強かったじゃん。暴力じゃなくても、祥馬がイヤだーって思うようなことをすればいいんだろ? じゃあ、嫌いなものを食べさせるとか、あとは……、うーん、思い付かないけど、そういう軽いものでも魔力? が装填されるかもしれないし」
詭弁だとは承知している。そんな単純なものではないことくらい朋坂にはなんとなく解っていたけれど、それでも試さないよりは良いと思った。まだ殴打したときの感触が残る拳をさすり、瞳を伏せて微笑む。
「きみ、口は悪いけど根はいい子だし、俺だって痛いことなんてしたくないよ。これはきみを住まわせる条件だと思って、すこしだけ試させてくれないか。祥馬を傷付けずに魔力を高める方法をさ」
九吹の苛立つ指が止まった。背けていた目が朋坂を見上げる。
「……ヨリって、見かけによらずけっこう強引だな。あとお人好し。昨日みたいに、へんにペコペコされるより全然いいけど」
「そうかな。……ふ、そうかもね」
「そー。前のマスターも、前の前のマスターも、その前のマスターもみんな、喜んで殴ってきたけど」
ふんと鼻を鳴らす九吹の瞳は、どこか遠くを見ていた。かつてあったマスターの兇行を反芻しているのだろうか。無意識に腕をさする動作を見せていた。胸が詰まる。
「……大変、だったみたいだね。俺には想像つかないよ……」
「べつに。しょーがないじゃん? そういう暴力的な奴が俺のマスター適正に合致する傾向にあったみたいだし、むしろそんなのマスターの方が多かったから、ヨリや、それこそ弥言 さんの方が異質っていう、か……」
そこまで声を紡ぎ、九吹ははっと口を閉ざしバツが悪そうに瞳を揺らした。動揺して、年相応のあどけない無防備な表情になる。迷子の子供みたいにふらふらと黒目がさまよう。
「ミコトさん……?」
朋坂はその名にわずかな引っかかりを覚えた。どこかでその名を聞いた気がする、と逡巡しかけてすぐに思い出した。
――――『お前までっ、――さんみたいな事を……ッ』
腕を掴まれた時に、九吹は朋坂にそう吠えた。あのときはうまく聞き取れなかったが、今なら解る。あのときも、〝ミコト〟という名を苦しげに呼んでいた。
「ミコトさんって、その人も昔、マスターだった人か?」
朋坂の疑問に、九吹は答えない。ぜったいに口を割らないぞという意固地といまにも泣き出してしまいそうな哀憐がちらちらと見え隠れして、そして朋坂もまた、九吹の抱える〝ミコトさん〟という領域に立ち入ってはいけないような気がしてしまい、口を噤むしかなかった。
気まずい沈黙の中、時計の進む音が刻まれる。ちくちくと、朋坂のこころまで痛みを伴いながら刻む。縮みかけた距離がまた大きく開いてしまうような気がして、とりあえず何かことばを続けなければと口を開けば、それより先に隣で静かにしていた骸骨がふよりと宙に浮かんだ。はっと九吹が顔を上げる。
「……襲撃だ」
「えっ……、また?」
明らかに以前よりも、ファミリアの襲撃の頻度が高い。かつては数ヶ月に一度の襲撃だったのに、いまでは数週間おき、そして今日なんて二日続けての襲撃だ。
「場所は……、チッ、呉服屋の縄張りじゃねーか。じゃあ行かなくていいか」
ライオネルの咥えた宝石からブォンと光が伸び、白い壁に投影機のようにして映像が投射される。映像は広域地図から切り替わり、S区の広域地図を映し出した。ここからは少し距離がある。
「行かないの?」
「アルマにも縄張りっつーか、管轄みたいなもんがあんだよ。ここは、呉服屋のマスターとクソメガネのアルマが牛耳ってるエリアなの。下手に手を出すと面倒くさいことになる」
へぇと相づちを打ちながら、朋坂はしばし考え、立ち上がった。
「行ってみよう」
「はぁ? ヨリくんさぁ、おれの話聞いてた?」
九吹は目をまんまるにしている。睥睨され怒られる前に、朋坂はするりと部屋を抜けてジャケットを掴んだ。九吹とライオネルも慌ててぱたぱたふよふよと後を着いてくる。まるでひな鳥だ。
「俺が祥馬のマスターから降りられないのなら、覚悟を決める必要がある。そのためには、他のマスターの振る舞いを見ておいて損はないと思うんだ」
「ちょ、おいおいおい……、なんでそんな急にやる気なの。俺はやだよ行きたくねーよ」
「なら、俺だけでも行ってくるよ。大丈夫、危ないことはしないから。良い子で留守番していてくれ。あ、風呂は先入ってくれてもいいけど、俺のも残しておいてね」
「いやいやいや……、ヨリ、待てって! おい! 俺も行くって!」
がやがやと賑やかに玄関を出る。九吹もまろびつつ大慌てでブーツを引っかけ、早歩きで先導する朋坂を追った。
星のない夜だった。厚い雲がかかっている。遠くの空にぱちぱちと青白い雷光が瞬き、朋坂はぶるりと震えた。
また昨日みたいなことが……と臆する一方で、もしかしたら、テレビで応援していた魔法少年の、そして朋坂の存在を認識してくれていたコンビニ店員の、歴代のマスターたちに虐げられていた九吹を救うヒントを得られるかも知れないと朋坂は息巻いていた。きっとそれは完全なるエゴなのだろうけれど、〝もしかしたら、自分なら助けてやれるかもしれない〟という熱い使命感に頭が、脳が火照っていた。後ろを追いかける九吹の不安げな表情に気付かないほど、朋坂は焦っていた。
もしかしたら、自分ならば――――……。その思いだけが寒空の下で煌々と燃えていた。
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