15 / 32

子羊のミュトス 1

 ふたりだけの寝室の中で、呼吸と秒針の音だけが命を持っていた。屍のように眠る祥馬は、窓からこぼれ落ちる青褪めた月光にほの白い顔を惜しげもなく晒している。まるで深海の棺に納められた死体のようだ。糸のようにかぼそい寝息は、耳をそば立ててもたしかな音になどならない。無音。うすい胸だけが健気に上下していて、それだけが朋坂を唯一安心させてくれる材料だった。  目視でしか彼の存在を認識できない。死体然と転がる目の前の祥馬が、もしも魂だけの、非実体的存在に落ち込んでしまったとき、自分はその魂を捕まえてやれるのかと思ってしまう。まだ出会って間もない。〝身体”という実態がなければ、その胸の上下が、吐き出される呼気のあたたかさを実感できなければ、祥馬の存在を証明してやることはできない。それが自身の傍観者の体をありありと浮き彫りにしているようで、苦々しくこころを刺し続けてやまない。  明るいか、と独り言をこぼし、遮光カーテンを閉じた。暗闇が部屋に充満すると、いっそう秒針の音が倍化していく。すこし迷い、ベッドサイドの明かりを付けた。橙色の光に誘われるように、祥馬の枕元に控えていたライオネルがふわふわと浮遊し始め、祥馬の顔を心配げに何度も確認している。  祥馬の顔を見下ろしていると、胸の中に沈殿した後悔や罪悪感がじくじくと痛んだ。あろうことか瀕死の祥馬を、泣いて縋り付くか弱い少年をこの手のひらで力いっぱい張ったのだ。あのときに湧き上がった震えるほどの激情を、朋坂はすっかり忘れてしまっている。かすかな種火のように燻る昏い衝動を、忌避さえしている。あまりにもおぞましく、生々しい。直視なんてできるはずがない。あんなのは、自分じゃない。  どうしてあんなにも怒りに支配されたのか……。体温を失った頬に手を伸ばすと、ライオネルがびくりと跳ね上がった。叩くとでも思ったのか、じっとこちらを昏い穴で見つめている。 「なにもしない。大丈夫だよ。ライオもすまないね、心配させて」  努めて声音を優しくすると、納得したのかすぐに骸骨は後退してくれた。まだ短い期間とはいえふたりの絆は知っている。祥馬にひどいことをするのではという疑いを抱かれたとしても悪い気はしなかった。手の甲で祥馬の冷えた頬を撫でる。するりとした表面に傷はない。安心した。 「ライオ、すこし電話をしてくるから祥馬を見ていてくれるか?」  小声で問うと、ライオネルは律儀に頷き、その場で何度か旋回した。まかせろ、とでも言っているようだ。ひやりとしたその表面を撫でて朋坂は部屋を辞した。  仁見の電話番号、その控えはきちんと取ってあった。     『祥馬の調子はどうですか』  たったのワンコールで応答した仁見は、開口一番、発信元の人物を確認するわけでもなくそう口にした。 「よく眠っているよ。怖いくらいだ。……それにしても、よく俺からの電話だって分かったね」 『まあ、つい先程あんなことがあったばかりですし。それに今夜、私に用事がある人なんて、あなたくらいしかいませんよ』  そうか、と呟くもその後の言葉が出てこなかった。なにから話したものか、まだ考えがまとまっていなかったのだ。 『電話をかけてきた本人が沈黙だなんて、まるでいたずら電話ですね』 「あ、悪い。色々ありすぎて一瞬あたまが真っ白になってた」 『だと思います。……では私から、いいですか』  仁見の声がひそめられる。スマホを握りなおし、彼の言葉を待った。 『祥馬が目を覚ましたらまずは栄養を摂らせてください。一度死んだ身なれど、私たちはたしかに生きています。魔力や魂の補充も肝心ですが、まずは魂の入れ物、器が頑丈でなければ話になりませんからね』 「……わかった」  死んだ身。はっとするも疑問を挟むべきではないと感じ、殊勝にうなずく。 『そして、明日にでも魔力の補充を。さすがにもう、覚悟はついたでしょう』  押し黙る。仁見のため息が耳をくすぐる。 「それも、わかっている。覚悟とまではいかないけど、……やるつもりだ」  そうだ。もう二度とあんなふうにズタズタにされる祥馬を見たくはなかった。たとえ痛い思いをさせるのだとしても、たとえふわふわとした日常が壊れるのだとしても、やらなければならない。祥馬を負けさせないためには、死なせないためには力をつけさせなければならないのだ。 『結構。期待していますよ。祥馬は本来、私なんかよりずっと強いのです。今日みたいなマーテル、以前のマスターたちに支えていた頃の祥馬なら一撃で完封できていました』 「そう、なのか」 『そうですよ。今の祥馬は見ていられません』  仁見の硝子細工めいた声がどんどん棘を増していく。仁見が友好的なのは祥馬に対してだけで、おそらく朋坂に対しては怨嗟の念すら抱いているのだろう。強大な力を持つ同胞を腐らせる、役立たず。そういった認識で捉えられているとはっきり示されると、さすがに居心地の悪いものを感じる。 「……ごめん」  何に対しての謝罪なのかもわからない。けれど、仁見が小さくほっと息を吐く空気のゆらぎを感じ取った。 『まあ、以前のマスター達は個人的な鬱憤を晴らすためだけに祥馬に暴力を振るっていましたから。アルマたちのなかでも格段の力を有していて、なおかつ自身の力の強さを祥馬もきちんと自覚していた。他者から羨望や嫉妬を向けられるほどに強い彼は、そのぶんだけ辛い思いをしてきたんだと思いますよ。強いってことは、それほど魔力供給が豊富……つまり、傷付いているっていう証明にもなりますから。生傷の絶えない祥馬はさすがに痛々しくて……』  潔癖な声にしばしの逡巡が滲む。 『あなたと契約をしてからの祥馬は、力こそ衰えましたがとても楽しそうで……、私はきらいじゃなかったですよ』 「仁見くん……」  はっとした。祥馬を憧れの象徴として視る仁見が、祥馬の“人間”としての本質を慮っている。アルマとして強くあって欲しいという願いと、個人に赦される最低限の尊厳を慮るきもちが拮抗しあう心境とは如何ほどのものだろう。安易に想像して勝手に苦しくなっているなどと知られたら、それこそ峻厳な仁見に失望されてしまう。彼のように厳粛に己を律するひとは、なによりも同情と憐憫と、その場かぎりの頼りない気遣いを嫌う。  しばしの静寂に朋坂の懊悩を汲み取ってか、仁見は小さく笑った。 『いまのは聞き流してください。私も喋りすぎました。……それともうひとつ。これは私の個人的な経験談なんですけど』 「うん?」 『祥馬は繊細です。言葉や態度で傷付けるよりも、体を傷付けるほうがまだマシかもしれません。こころの傷はいつまでも膿み続けて痕になりますけど、体の傷はすぐに治りますから。特に私たちアルマは』 「……そう、か。うん、……うん、わかった。もちろんきちんと考えるよ」  経験談、という前置きがずしりと重い澱となってのしかかる。仁見もあれほど強大な魔力を行使しているのだ。マスターである竹間の冷たい瞳を思い出す。あの氷の剣のような人物から与えられる苦痛……、朋坂のちっぽけな世界では到底思いつくことのできない所業なのではないかと後頭部が嫌悪感にざわついた。ギリ、という歯軋りの音が自身から発せられたものだということに驚く。手汗でぬめるスマホを握りなおすと、仁見吐息がわずかに揺れた。 『しかし、その道はあなたのこころを潰しますよ。現状を見極めたうえで相応の覚悟ができたのなら、祥馬の体を傷付ける痛みを以って、あなたも辛苦を背負ってください』 「ああ。肝に命じる。……ありがとう、仁見くん。それと、いやなことを言わせてしまって本当に申し訳ないね」  顔を見合わせているわけでもないのに、朋坂は自然と深く、深く頭を下げていた。空気の振動でその動作を感じ取ったのか、仁見はわずかに口ごもり、珍しく言葉を詰まらせた。 『え、あ、いえ。これも祥馬のためですから……』 「それも、ありがとう。これからも、いや、辛くなるこれからこそ、祥馬の助けになってやってほしい。俺が言うことじゃないかもしれないし、今でも十分すぎるほど助けてもらってるけど。お礼を言うのが遅くなっちゃってごめんね」  はっきりとした狼狽。はい、という返事が少々うわずっていて、彼の年齢を思い出した。  仁見がどれほど強く聡明であろうと、まだ若い、高校生なのだ。  そんな彼に、こころより体を傷付けた方がマシだと言わせてしまう己が情けなくて、朋坂は何度でも闇より昏い挫折を味わう。  物理的に傷付けることは容易い。しかしそれは、感情を失くしてしまえば、という前提がある。今は覚悟を決めたつもりでも、きっといざ祥馬の前に立てば躊躇が生まれる。幾度だって問答する。  そうでなければならない。わかったと二つ返事で頷いて、躊躇いもなく暴力を振るう自分ではありたくなかった。     運命を司る神がいるのなら、ファミリアを、そして魔法少年という存在を生み出してしまった罪深さを思い知りながら死に果ててほしい。そう思ってしまうこともまた、罪なのだろうか。

ともだちにシェアしよう!