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子羊のミュトス 2
(2)
部屋に戻ると、上体を起こした祥馬がライオネルを抱きしめ、カーテンの隙間から漏れる月光を浴びながらぼんやりとしていた。
「祥馬! 目が覚めたのか!」
慌てて駆け寄ると、瞳だけがこちらを向き、すぐに逸らされた。視線は月光に侵される伽藍堂の街に注がれている。カーテンどころか窓もわずかに開いていて、深夜の格段に冷え込む冷気が祥馬の青白い顔を必死に舐めていた。
「寒いだろう。風邪ひくぞ」
「…………」
虚脱した瞳に、胸がぐっと締め付けられる。
「なにか食うか。食えそうか? 食べたいものないか? ゼリーの飲むやつがあるけど、それだけでも食ってくれないか?」
矢継ぎ早に言葉を紡ぎ、ベッドの脇に跪いた。きんと冷えた身を切る夜風が、祥馬の月光よりもうすい光色の髪をそよがせている。あまりにも絵画的なそのシーンは、この部屋がまるごとジオラマなのではと錯覚させるには十分すぎる効果を生み出していた。息を呑んで、窓を閉じるために浮かせた腰を、再度つめたい床に落ち着かせる。とてもではないが、自分の身じろぎで、祥馬を取り巻く一切が織りなす静謐な牙城を崩すことができなかった。魔に魅入られた矮小な生物に成り下がった感覚で、頭を垂れる。
「……ヨリ」
緩慢にこちらを向く顔。寒々と青褪める月の光が、祥馬の首から垂れる真紅の宝石を妖しく光らせる。ピジョンブラッドの光は朋坂の目を眩ませるほどの光量ではないはずなのに、思わず何度か目を瞬いてしまった。そのわずかな瞬きの間隙に、祥馬はすべての興味を喪い、窓の方を向いて沈黙する。
「なんだ?」
唾を飲む音が滑稽に鳴る。かすれた声で問うも、彼はなにも言わない。しばしの無音に室内が底冷える。どれほど待っても祥馬が口を開くことはなかった。ライオネルも不安そうに祥馬の腕の中で身じろいでいた。
「祥馬は、いま、何がしたい?」
重ねて問うと、またしてもしめやかな黙秘。狼狽。望みを口にしてもらえないというのは、これほどまでにもどかしいのか。
いつもやかましく囀っていた粗暴の祥馬がこんなにもしなだれ、痩せた首すじを薄闇に溶け込ませている。淡い月光だけが祥馬の輪郭を辛うじて生かしている。
胸が張り裂けそうなほどの静寂ののち、うすい唇がちいさく喘ぐ。声が紡がれる。
「おれは……、強くなりたい」
ぽた。ぽた。俯いた顔からこぼれ落ちるアクアマリンは、彼の涙か。
「しょ、ま……。ダメだよ、魔力が、こぼれ落ちてる」
慌てて両手を伸ばして宝石の粒を受け止めると、それらは冷え切った手のひらの温度ですら融解し、蒸発した。大気中に消えてしまった涙は僅かな魔力を拡散させ、彼の生命線がいまこの瞬間にすら喪われつつあることをありありと知らしめた。
「祥馬!」
それ以上魔力を零してはならないと、力強く腕を引いた。反動で彼はベッドに倒れ込み、はらはらと薄水色の粒がまなじりから溢れ続ける。はかない生命の結晶。宝石みたいな粒はシーツの上に広がる金色の髪が生む海に取り込まれ、消えた。部屋に満ちる魔力濃度がより一層濃くなる。窒息してしまう。閉塞してしまう。いのちが、拡散していく。
「泣くな、お願いだから泣かないでくれよ。頼むから。なあ、頼むから……」
馬乗りになって、両手で彼の頬を包む。ライオネルは宙に放たれ、困惑したように落ち着きなく揺れる。
「祥馬!」
どれほど頼み込んでも、祥馬は泣き止まない。しまいには幼子のようにしゃくりあげ、朋坂を押しのけようと必死にもがいた。けれど、体力の足りない身体では如何ともならず、朋坂の胸は耐えがたい憐憫に支配される。
「……っ!」
ごめん。
小さく呟き、片手で祥馬のほそい両手首を掴んだ。たった片手で纏められてしまう腕。力加減を誤ればへし折れてしまいそうだ。昏い雑念が朋坂の眉間から皺を消す。右手を振り上げてしろい頬を張った。
バチンッ! 冷え切った頬は、同じく氷のように冷たい手のひらとぶつかり合い、大きく乾いた音を部屋中に響かせた。
「いっ、……!」
瞠目する祥馬の頬に、もう一度氷の手を振りかざす。今度は派手な音は鳴らないが、重い衝撃に彼の痩躯がシーツの上で踊った。防御態勢を取るためか、祥馬は腹を庇うように背を丸める。それでも腕は掴まれたままなので、軽く引くだけでこちらを向かせることなど容易かった。
これが、この軽いからだが、質量が、触れれば泡沫と消えてしまいそうな少年が、パステルの星海とともに跳躍し、大鎌の一閃で化け物たちを消し炭にしていく魔法少年なのか。
「よ、ヨリぃ……っ」
哀しみにひしゃげた瞳。つらそうに寄った眉。蒼い、半透明な月光に侵食される、青褪めた頬。片頬だけ血色が良いのは朋坂の乾いたてのひらに叩かれたせいだ。
おれが齎した。生を。冷たい、死人めいた青白い頬に血色を宿したのはおれのおかげだ。
はっと我に返った。
いま、なにを考えていた……?
強烈な眩暈。
「うっ、……」
両手で顔面を覆い、ぐらぐらと渦巻く視界を遮る。吐きそうだ。
「大丈夫か、ヨリ……」
覆った手指の隙間から見下げた先で、祥馬は不安げに朋坂のシャツを握っていた。あまりにも健気すぎる。今しがた、取り憑かれたようにおのれの頬を張り続けた男を見上げ、本気で心配してくれている。頼りない、細い指で必死に縋り付いている。
「祥馬……、ごめん、おれ……」
慌てて赤い頬に触れ、ごめん、ごめんと何度も謝罪を重ねる。そうするたびに、祥馬の首元で揺れる真紅のクリスタルがぴかぴかと、押し潰されるほどの罪悪感に喘ぐ朋坂を煽るように照り輝く。
「……いいよ」
かぼそい声。頬を撫でる朋坂の手を取り、祥馬はひどく安心しきった顔で笑う。
「これで、また戦える」
哀切すらも抱かせてくれないほどにとろけた顔。安堵と諦観の表情は、青い闇のなか
で狂おしいほどに華やいでいた。
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