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オカトトキ

   *   *   * 「奏。赤のアルマの様子はどうですか?」  さらりと開いた襖に寄りかかり、マスターである竹間銀覚が低い声を投げかけてくるのを面倒に思いながら、仁見奏は読みかけの本に栞を挟んだ。 「おそらくは魔力の補充は円滑に行われたと。……ここまで祥馬の魔力のかおりがします」 「へえ。頑なだったのにね。とうとう成し遂げられたんだね、あの優柔不断そうな青年は」  愉快そうに笑う竹間を見上げ、仁見は居心地の悪さに、正座をしていたおのれの太腿を撫でた。無意識の行動ではあったが、マスターの舐る視線に晒されるとき、彼は自身の腕や足に手をやり、労わり撫でる癖があった。それを見抜いているからこそ、竹間は一層笑みを濃くして目を細める。にたりと、キツネの如く口の端を持ち上げる。仁見はただまつ毛を伏せて、横髪をいじる。竹間の笑みは、ひとえに強大な九吸祥馬の復活を歓んでいるだけだと単純な想像していた。ぞくりと身震いしそうなほどに陰険な笑みが自身に起因しているだなんて、思いもしない。その機微すら見抜いて、竹間は更に可笑しそうに喉を鳴らす。  しかし、仁見が勘違いをするのも無理はない。  竹間銀覚は、九吸祥馬のマスターになる機会をひそかに狙っていたのだ。無論、そのチャンスが巡ってくる前に、朋坂頼世が意図しない形でマスターになってしまったため、本願は遂げずにいる。 「あの、マスター。用事はそれだけでしょうか」  困惑を滲ませる声音に、竹間は片眉を上げて着物の袖で口元を隠した。 「おや、談笑は迷惑かな?」 「あ、いや。そういうわけではないのですが……」  機嫌を損ねると折檻がひどくなる。ただ単純に暴力だけで魔力を補充してくれたらすぐに済むのに、竹間はおのれの好奇心の赴くまま、“別の方法”で仁見に痛苦を与えるのだ。それはひどく惨めで、頽廃的で、仁見の高い自尊心をめちゃくちゃにへし曲げる行為でもあった。  表情を曇らせる仁見の心中をすべて見通し、竹間は機嫌よく喉を鳴らして低く嗤った。白檀の香りが近づく。普段は柳のように垂らしている前髪を、今夜は後ろに流している。黒く艶めいた前髪が一房くずれ落ち、竹間の彫りの薄い顔にわずかな蔭を生じさせる。縦長の爪が揃った指が仁見の頸に伸ばされるが、彼は避けようともせず硬くまぶたを閉じた。拒否の姿勢を窺わせる動作は、赦されていない。生命線を、――頸を掴まれる。辛苦を覚悟して顎を上げる。首の隆線を差し出しながら身構えるが、予想とは異なり、竹間は喉仏をさらりと一撫でしただけですぐに解放してくれた。が、ほっと息を吐く間もなく、喉仏のいちばん高い頂点を爪先でひっかかれる。傷こそ付かないが、なにかを刻み込まれた気がして怖気がする。 「奏は変声期が遅かったね。いまではずいぶんと落ち着いた声になったけれど」  含み笑いでかつてのコンプレックスをダイレクトに刺激され、仁見のまなこから怯えが消え去った。 「……たわむれを」  顔を背けると竹間は嗤い、よいしょとじじくさい独り言とともに隣に腰を落とした。仁見の喉仏を撫でたときとおなじ仕草で若菜色の畳を撫で、視線を合わせないまま「かなで」と名を呼んだ。 「なんでしょう」  大抵用事があるときは簡潔に済まされるか、伝達の者を通して指示が降るので、こういった二人だけでただ座っているだけの時間はかなり珍しい。慣れぬからこそ、居心地が悪い。自室のはずなのに、竹間が存在しているというだけで自身のにおいも、見慣れた家具の配置も、すべてが知らない異世界のように感じてしまう。竹間の影響力を、地場を、分からされてしまう。  持続する困惑を弄ぶように、竹間はわざと会話に妙な間を挟んだ。 「次、ファミリアの襲撃があったら」  ゆるゆると上がる竹間の瞳に、蒼昏い鱗粉が舞う。いやな予感がする。 「致命傷を負ってみなさい」 「……は、」  いったいどういうことだ。目を丸くしてたじろぐ自身のアルマを一瞥し、竹間は卓上に置かれた彼の本を手に取った。栞を抜き取り、ひらひらと振ってみせる。 「自己治癒能力の限界や修復時間を観察したい。できるね?」  長い指が栞を落とす。ひらひらと舞う、桜の花弁のようなあやうい足跡を遺しながら、栞が畳の上に落ちる。仁見の泳ぐ眼もふらふらと左右に彷徨い、やがて視線は栞の墜死とともに地面に固定された。与えられた指示とそれにともなう恐れに、マスターの表情を、昏い燐光を灯す剣呑な瞳を直視することなんて、とてもではないができなかった。

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