30 / 32
マジックアワー(3)
* * *
『ぐずマスター、あっちだ!』
「了解っ……!」
遠距離攻撃を得意とする仁見のアークは伊達では無い。
アストラは撹乱や隠密行動に端緒をなす能力を有している。ライオネルと肩を並べられるほどに強力な障壁は張れないが、そもそも攻撃をされない、ということを念頭においた構成ともいえる。氷雪の霧隠れと、精密射的。お互いの長所を高めあい、そして弱点を補いあう鉄壁のステルスデュオ。知覚されない限り一方的に攻撃側に回れるというのは、遮蔽物に恵まれた都市戦で一段と輝く。
弧を描きながら宙を泳ぐアストラが空気を裂くと、微細な氷の礫が風花のように舞った。まるで流星のなかを走っている心地で魚影を追う。あまりにも性急に両足を動かすものだから、朋坂は何度も転び、そのたびに膝を擦りむいた。そろそろ膝の皿でも割れそうな勢いだが、いまは痛みも気にならない。
それよりも、祥馬だ。
誘蛾灯が点滅する路地を抜け、犯罪防止用の青い外灯が深々と降り注ぐ文具屋の軒を駆けた。焼け石に水だろうが、少しでも防御を高めようと履いてきた鉄板入りのセーフティシューズが大きな水たまりを踏む。しぶきが上がるも、水にしては異様に重い、たぷたぷとしたスライム状の音と感触を訴えて足が止まった。これは……不規則な蒼い明滅光にぬらぬらと照らされたこれは、目が覚めるほどに鮮やかな緑色の――――レモラの血だ。
「よぉ、思ったより早かったじゃん」
頭上から落ちてきた気だるい声に、はっと顔を上げる。
見上げた先に、祥馬がいた。歩道橋の手すりの上にあぐらをかいて座り、ひらひらと手を振っている。手すりや階段からは、スライム状になった血液が糸を引きながら滴っていて、あまりの惨状に一瞬、意識が眩んだ。
月光を背負っているせいで祥馬の全身のほとんどは陰に沈んでいるのに、ふたつの眼だけは逆光のなかにあっても血潮の輝きを爛々と放っている。祥馬の膝の上で寡黙を極める髑髏が咥えた宝石もまた、ピジョンブラッドの輝きで夜陰を退けている。祥馬の眼と、髑髏の有する宝玉。三つの紅玉が織り成す逆三角形は、まるで、おおきな怪物の顔面を簡素に表したかのように見えないだろうか。この光景を切り取れば、魔物の世界を描いた絵画そのものだ。きっとその世界に、人間はひとりとして存在し得ない。
魔の領域だ。
圧倒的な魔にあてられて一瞬身が竦むも、朋坂はそれ以上に、ただ純粋に案じていた。
「祥馬、危ないだろそんな高いところ……。いや、危なくないのか、おまえにとっては」
「は? 一番に気にするところ、それ?」
祥馬は呆れたように言い、高さなんてものともせず軽やかに手すりから飛び降りた。羽のような着地に、長く垂れたコートの裾がふわりと空気を孕んで、やがて重力に引き寄せられて落ちた。優雅な鳥の着水に似た動作だった。
「遅かったじゃん。あんなに満タンだったのに、俺の魔力はもうすっからかんよ」
荘厳だった佇まいはどこへやら。あまりにも適当すぎる口調に、朋坂は脱力してしまった。濃すぎる魔の領域は、すでに中和されている。
ここにいるのは、ただ疲労を露わにする、ひとりの少年だ。
「どーぞ、おねしゃーす」
当たり前のように祥馬は頬を差し出して、無防備にまぶたを下ろす。
「補充、だね」
ぐっと拳を握った朋坂は、しかし魔力の源となる〝痛み〟を与えるより先に、祥馬のからだをきつく抱きしめた。
「……? より、?」
「祥馬が無事で、本当によかった……」
腕の中でみじろぐ細い身体を、抵抗ごと抑え込むようにして抱きしめ続ける。
「ヨリ、ちょ……、くるし……!」
背を叩かれ、妙な名残惜しさを感じながらもようやく祥馬を解放すると、困惑を色濃く顕す瞳が揺れていた。
「なんなんだよ、もう……」
鬱陶しそうな声音に反して、祥馬の口元は戸惑いと照れ笑いの半々の表情で複雑なたわみを見せていた。
「早くファミリアをぶっ倒してさ、俺ん家でエナドリ飲みてぇよ」
ふは、と笑う祥馬の頬を殴り倒し、地に伏せた体に馬乗りになって頸を締める。
「ァ、が……はっ」
軋む頸椎。たおやかな膚を敷き詰めた喉。喉仏の硬さが、てのひらの肉を甘く反発する抵抗感を噛み締めながら、痙攣し始めた祥馬の身体から身を引いた。
(俺にできる精一杯の力添えが、これか……)
朋坂ひとりだけで暮らしていたモルタルの箱を〝俺ん家〟と呼んでくれた祥馬に愛おしさを感じる。
それなのに。
(ごめんな、祥馬。痛い思いばかりさせて――――)
竹間に嫌悪感を抱く資格なんて、そもそもあるわけがなかった。
ともだちにシェアしよう!