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第4話

ふわっと甘い香りがして、それをもっと感じたくて無意識に呼吸を深くした。 胸いっぱいに入り込んでくる甘い花の蜜のような香り、それでいて石鹸の清潔感溢れる清涼感があるスッキリした香りだ。 しかし次の瞬間、なぜかひやりと背が冷えて、甘い香りで少し夢見心地だった意識が一気に覚醒する。 目の前には、龍樹。 「…あ、ごめんなんか言った?」 「わざわざここまできて第一声がそれかよ…」 大丈夫かお前、と呆れた声を出す弟に、いつもなら軽口で返すところだが、この時水樹はそれどころではなかった。 龍樹の隣から、目が離せなかった。 天使様、と。 まるで宗教画から出てきたみたいだ、と。 そんな風に言いだしたのは一体誰だったのか。 宗教画など授業の範囲内でしか知らない水樹でさえ、なんて的確な表現だと思ってしまう。 「えと、ジャージ、そうジャージ借りたくて…」 「さっき使ったけど。」 「いいよ。」 そういうと龍樹はまた教室の奥に引っ込んで行った。 龍樹は水樹が嫌がらせされていることに気付いていない。入学してすぐ、もっと派手にやられていた時は流石に気付いていたようで、常に一緒に行動して威嚇していたが、夏休みが明けて勢いが燻ってからは、もう何事もないと思っているようだった。 龍樹がいなくなり、手持ち無沙汰になった水樹がその場を離れなかった水無瀬にチラリと視線を向けると、何故かこちらを見ていたらしい青い瞳とバッチリ目が合った。 ニコッと笑った天使様はそれはもう、綺麗というよりは美しいという表現がぴったりくるほどだ。そこだけスポットライトが当たっているようなキラキラした笑顔が眩しい。何故か直視出来なくて、慌てて視線を逸らしてしまった。 「初めましてだね。僕、水無瀬 唯。龍樹がよく君のこと話してるよ」 「…弟が世話になってるみたいで」 「普通科に双子のお兄ちゃんいるって聞いたときからずっと会ってみたかったんだよね、嬉しいなぁ」 「そりゃどうも…」 気まずい、非常に気まずい。 ニコニコしてくれる水無瀬はとても眼福だが、当たり障りのない会話がなんだかとても難しい。とてもじゃないが笑顔なんて返せない。 縋るような思いで教室の中を見れば、頼みの弟はジャージを抱えたままクラスメイトとしゃべっている。 (バカかあいつ!早く戻ってこい!) そのジャージを俺に渡してからでもクラスメイトとのおしゃべりは出来るだろうが! きっと本人はまさか水樹が会話に困っているだなんて微塵も思っていないだろう。 なにせ人見知りは龍樹の十八番で、水樹がそれを助けるのが常だったからだ。 「お兄ちゃん、よく似てるね。僕双子が並んでるのって初めて見たよ。」 「二卵性だし、普通の兄弟と変わんないよ。」 「あら、意外とさっぱりしてる。」 「そう?」 「龍樹の方がお兄ちゃんっ子なのかな?」 チラリと隣を見上げると、顎に手を当てて考える仕草をしているのが様になっている。 その手首は、入学式で受けた痩せた印象を薄めて健康的な細さだった。 「水樹、ごめんお待たせ」 ようやく戻ってきた弟に、遅い!と喉まで出かかった。それをすんでのところで飲み込んで、口にしたのはお礼。 雑に畳まれたそれがなんとも龍樹らしい。 「これ、返すの明後日でも平気?部活でも使いたいんだけど。」 「いいよ、今週もう体育ない。」 「じゃ洗って返す。」 「ん。」 時計を確認すると、そろそろ戻って着替えないと間に合わない時間だ。 水樹はもう一度礼を言って、踵を返した。 またふわりと甘い香りが漂った気がして、直ぐに振り返る。 龍樹は既に教室の中に戻るところだったが、まだ先ほどと同じ位置に立っていた水無瀬と視線が交差した。 にこにこと朗らかに接してくれた人物とは思えない。 ガラス玉のような青い瞳が、本物のガラスのように冷たく水樹を見据えていて。 ぞく、と背筋が凍って、逃げるようにその場を後にした。 (なにあれ、あんな、) まるで品定めするかのような、舐めるような視線。 中学1年生、13歳。 水樹は既に発情期を迎えていた。 αの絶対的な支配力に決して抗えないことを、知っていた。

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