9 / 226

第9話

それから少ししたある日。奈美はしげしげと水樹を見つめて突然言い放った。 「水樹、恋でもしてるの?」 と。 それは水樹にとって思いもよらない言葉だった。 「…は?」 「してるね?してますね?あらあらあら〜!」 まるで近所のおばちゃんのような仕草をする奈美に、目を白黒させるしかない水樹の脳内では、すごい勢いで思考が回っていた。 恋。恋愛。 好きな人。 誰が、誰を? その時瞬間的に思い浮かんだのは綺麗な青い瞳。 浮かべて、すぐに水樹はハッとしてぶんぶんと首を振った。 「ない!ぜったい!ない!」 「その否定の仕方は肯定と取れる!」 「ない!!」 力いっぱい否定した水樹はこの話題を終わりにしたくて、慌ただしく鞄に荷物を詰めはじめた。 その様子を柔らかい眼差しで見つめる奈美は、なんだか同じ歳とは思えない。 どうして女ってこういう話題が好きなのかな、と恨めしそうに見返すしかできなかった。 「私はいるよ?」 と、聞こえてきた言葉にハッとして。 信じられないものを見る目で奈美を見れば、ひどく大人びた表情をする友人の姿。 恋をすると人は変わるというが、それを目の当たりにした気分だった。 「なに、もしかして俺?」 「ないわー…」 「えー、今の流れそうじゃなかった?」 なんて茶化すのが精一杯だった。 「水樹も知ってる人。」 「え、龍樹はあげないよ?」 「話したこともないわ!」 知ってる人って言われても。 水樹は思いつく限りの知り合いを次々に頭に思い浮かべて、そしてすぐに半ば諦めた。 よく知ってる人なのかそれとも顔見知り程度の知ってる人なのか、それによっても随分違う。割と顔の広い水樹の交友関係の中からたった1人奈美の想い人を探し当てるなど土台無理な話だ。 難しい顔をして悩んでいる水樹を楽しげに見つめていた奈美は、そっと顔を寄せて耳打ちした。 「っえぇええ、なんで藤田…ぶぇ」 「声がでかいバカ!」 しー、と水樹の口を塞ぐ奈美に、ごめん、と仕草だけで謝った。 藤田というのは水樹と同じ陸上部で、部内では水樹が一番仲が良い同級生だ。 気の良いやつで誰とでも仲良くなれる性格がとても人気があり、廊下を歩いていればいろんな人から声がかかるような所謂ムードメーカーのような奴だった。 しかし藤田と奈美では、接点がどこにもない。 「どこで知り合ったの?クラスは一緒になったことないし部活は違うし…」 「多分藤田くんは私のこと覚えてないよ。部活中にちょっと会っただけだもん。」 そのちょっと会った時のことは教えてくれないらしい。その時のことを思い出しているのか、奈美の顔は穏やかで少し頬に赤みが差している。 正に恋する乙女そのもののような表情は、友達以外の感情が微塵もない水樹でさえ可愛らしいなと思った。 が、しかし。 「…でも、藤田って…」 「いいの。」 「え?」 「知ってるからいいの。」 途端に影を差した笑顔は、すでに恋を諦めていた。

ともだちにシェアしよう!