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第12話

ほとんど駆け足だった。 当てもなくただただ前へ前へ。 そうしてがむしゃらに歩いて辿り着いた先は、2人で会う唯一の場所。食堂の自販機の前だった。 そういえばここでしか、2人で会わなかった。 水無瀬は何故かいつも10円無くて、いつも10円あげてた。 この自販機の前での一瞬が好きだった。 『お兄ちゃん、10円ある?』 ちょっとバツが悪そうに微笑む顔が好きだった。困った顔がどこか可愛くて、お兄ちゃんと呼ばれて頼られているみたいで、そうまるで弟がもう一人できたような感覚でさえいた。 と、思って、水樹はあることに気がついた。 「俺…名前で呼んでもらったことないや」 毎日のようにどこかしらで会っていたのに、いつだって彼からの声掛けは『お兄ちゃん』だった。ただの一度も名前で呼んでくれたことはなかった。 お兄ちゃん。 お兄ちゃんはさ、 お兄ちゃんは? 龍樹が。 龍樹は。 龍樹がね。 弟は、いつだって名前で呼んでもらっていた。 水樹は目の前の自販機を見つめると、財布を取り出した。そして奇しくも。 「…あは、10円無いし…」 仕方がないので200円入れた。 迷わず押したボタン、がこんと大げさな音を立てて落ちてくる飲料。 それはいちごオレ。 水樹はミネラルウォーターかお茶しか買わないし、基本的にジュースを飲む習慣がない。 生まれて初めて買ったいちごオレにストローを刺して、少しだけ口に含んだ。 「うわ、甘…」 一気に広がった人工的な甘みは、正直苦手な味だった。買ったはいいが飲みきれる気がしなかった。 苦笑いしながら手の中のピンク色のパッケージを見つめると、水無瀬の顔が浮かぶ。 10円を渡して、ありがとう、と満面の笑みを浮かべた水無瀬の顔。 あの美しい顔にどこか不釣り合いなこの可愛らしい飲み物を上機嫌で買う姿が、好きだった。 「………ふふ、笑える。」 乾いた笑いが止まらない。 それとは裏腹に涙がじんわりと浮かんできて、どうしてもそれをこぼしたくなくて拳で乱暴に拭った。 もう、弟の恋人なのだ。 自覚するのが遅過ぎた。 大切な弟から奪おうだなんて、微塵も思わない。 けれどもしも、もっと早く自覚していたなら、何かが変わっていたのだろうか。 「そんなわけ、ないか。」 名前も呼んでもらえないのに。 自分は彼にとって、出会った時から今も友達の兄でしかないのに。 『私自身のためにも、綺麗な初恋として思い出にしておくの。』 「…意外と早く、俺にも思い出できたな。」 ちがう。 「はやく、思い出にしないとなぁ。」 イチゴオレは、やっぱり飲みきれなかった。

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