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第33話
夢を見た。
幼い頃の約束の夢を。
こんどはぜったいたすけるから。
だからおれがαでもきらいにならないで。
レイプ現場に鉢合わせて、助けてくれようとして大怪我して。全身に包帯を巻かれて、動かないようにベッドに固定までされて、そんな痛々しい姿の龍樹がそう言ったのはもう何年前か。
もう二度とこんな姿見たくない。
もう二度とこんな思いさせない。
だから空手道場の門を叩いた。
対抗する術が欲しかったから。
だから陸上部に入った。
逃げ切る体力が欲しかったから。
結局何ひとつ役に立たなかった。
───
けたたましいアラームの音に、水樹は反射的に右手で目覚ましを叩いた。
そのまま目覚ましの隣を探って、いつも寝る直前に外す首輪を探して…見つからなくて布団から顔を出した。
「そうだ、首輪ないんだ…」
むくりと起き上がると、ソファに腰掛けたまま水無瀬が寝ていた。初めて見る寝顔は、どこから見ても感嘆の溜息が漏れそうなほど見事な造形をしている。
あんな酷いことをして、言って、完膚なきまで叩き潰したくせに。ベッドを譲って自分はソファで寝るなんて。
「優しさの使いどころがわかんない。」
ふんっ。
そう吐き捨てて、がしがし頭をかきながら洗面所に向かった。
途中、テーブルに無造作に置かれた慣れ親しんだ首輪。Ωとわかったその日に父から贈られ、長年水樹のうなじを守ってくれていたそれは、改めて見るともう随分古くなっていた。
鏡に映る自分は酷い顔をしている。
泣き腫らした目に涙の跡が残る頬。
何度も強く噛み締めた唇は切れてしまっていた。
そしてうなじに残るまだ新しい噛み跡は、洗浄も消毒もしなかったせいで少しだけ膿んでいた。
水樹はそれを見て溜息をついた。
夢でも妄想でもなく、紛れも無い現実だったのだと。
起こったことは覆らない。
なかったことにはならない。
どう足掻いても龍樹からあの人を奪ったのは事実。龍樹を守るという建前で、側にいる理由が欲しかった。
それが、最悪の形で龍樹に知られた。
水樹は込み上げるものを誤魔化すように雑に顔を洗い、寝癖を直して傷口を洗った。
手当は後でいいや、とりあえず喉が渇いた。
そう思った水樹はキッチンに立ってコーヒーを淹れ始めた。淹れると言ってもインスタントだから、お湯を注ぐだけ。お湯を沸かす間にちらりと水無瀬の様子を伺うと、少し眉根を寄せて寝苦しそうにしていた。
そりゃあ1人がけのソファに座ったままじゃ熟睡なんて出来ないだろう。
水樹はそっと近寄って、吸い寄せられるように滑らかな額に手を伸ばした。
目にかかりそうな前髪を払おうとして、その手が触れるか触れないかの距離まで来たとき。
「っ…!」
短い悲鳴をあげて、水無瀬がまるで身を守るように腕で顔を覆った。
キツく閉じた瞳が恐る恐る開かれて、ほんの少し青い色が覗いて水樹の姿を捕らえた。
一瞬。
ほんの一瞬だけの間。
「…なんだ、君か。」
あっさりそう言った水無瀬はいつも通りだった。そして次に大きく伸びをして肩を回す。その時ケトルがカチリと動作をやめて、湯が沸いたことを知らせてくれた。
「何か飲むの?」
「あ、コーヒー…飲む?」
「うん、砂糖4つミルク2つで。」
「…え?」
「砂糖4つミルク2つで。」
「それもうコーヒーじゃない…」
「ほら早く。」
ぺしんと軽く小突かれて、水樹は渋々キッチンに戻った。
あれ、俺こいつにレイプされたよね?
なんでこんな小間使いみたいな扱いされてんの?
もちろんそう疑問に思ったが、水無瀬はさっさと洗面所に向かって行ってしまった。
なんだろう、この雑な扱い。
レイプしてごめんなさいと置き手紙してきた佐藤先輩とは雲泥の差だ。
しかし、そんなことよりさっきの水無瀬の反応の方が気になった。
あんな反射的に身を守るような行動、しかも眠っていたのに、だ。そんなに怖い夢を見ていたのだろうか。
(…水無瀬って、ほんとわかんない。)
思えば、彼のことを何も知らないかもしれない。
名前と性別。
頭が良くて運動もできて、甘いものが異常に好き。自分の名前が好きじゃないらしい。それくらいだ。
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