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第36話

「…き、水樹。」 トントンと優しく肩を叩かれて、ゆっくりと意識が浮上してまず目に入ったのは、水樹を捕らえて離さないガラスのような青い瞳だった。 悪い夢を見ていた気がする。 少し早い鼓動に強張った筋肉が不愉快だったが、水無瀬の姿を認めるとそれも少し落ち着きを取り戻した。 番というのは、安心感ももたらしてくれるのか。 水樹は本能の赴くままに両手を伸ばして抱擁を強請った。そうしてから、振り払われるかも、と一抹の不安を覚えたものの、水無瀬はそれを無碍にせず、そっと抱きしめてくれた。 鼻腔を擽るフェロモンに、強張った筋肉が弛緩した。特効薬のせいでガンガン響く頭も、ぐるぐる回る胃の中も、この優しい腕の中では随分と緩和される。 ずっとこうしていて欲しかった。 「魘されてたよ。」 「ん…」 すり、と額を擦り付けると、水無瀬は呆れたように溜息をついたが、やはり振り払ったりはせず好きなようにさせてくれた。 「龍樹もヒート抑制剤あんまり効かないみたいだったけど、君もひどいね。」 「…マシな方、だと思うよ。全然効かない人も、結構多いし…」 「ふーん…」 さして興味無さそうにそう呟いて、水無瀬はさらりと水樹の髪の毛をすいて、ひと束手に取り、そっと口付けを落とした。まるで大切なものを慈しむように。 水樹の胸がズキンと悲鳴をあげる。 髪の毛だけは、今も龍樹と同じ質だ。 「…笑っちゃうよね。」 「え?」 「聞いてたでしょ?水樹に顔向けできなくなるからやめろって。」 水無瀬は自嘲気味にふふっと笑った。 この美しい人に似合わない苦しげな笑みだった。 その話のくだりは記憶にない。 きっと泣き崩れてる間に交わされたのだろう。龍樹の優しさは、返って水樹を傷付けた。 龍樹にキスを拒まれてこんなにも傷つく水無瀬なんて、見たくなかった。 水樹はじっと整った顔を見つめた。 相変わらず作り物のようなその顔に痛々しい笑みが浮かんでいる姿は、見ているこっちが痛みを感じそうで。 水樹はそっと水無瀬の頬を両手で包み込み、真っ白い肌によく映える赤い唇に自分のそれを重ねた。 「…代わりにしたらいいよ」 元々そのつもりだったんでしょ。 その囁きは、最後まで紡がれることなく、再び重なった唇に阻まれた。 ─── どのくらいそうしていたかわからない。甘くみずみずしい唇に誘われるまま何度も口付けを交わして、その胸に額を預けてフェロモンに浸る。 水無瀬はずっと髪を撫でてくれていた。幸せだった。 「何か食べられそう?龍樹が色々持たせてくれたけど。」 「…冷蔵庫に、昨日のお茶が…」 と、そこまで言って、急に思考がクリアになった。 そういえば、なんでこんな時期に発情期なんて。前回はいつだった?先月はピルがちゃんと効いてて、だから先々月? 思い出すのは昨日の昼間。 飲み物買ってくるけど何かいる?と聞いてくれたのは水無瀬だった。だからお茶を頼んだ。いつものことだ。 いつも通りじゃなかったのは、その後だ。 水無瀬が買ってきてくれたお茶は何でか既に開いていた。聞けば一口もらった、と。 『僕だってお茶飲むんだよ?』 『いっつも甘ったるいの飲んでるくせに?』 『一口でいいんだよ。』 はいこれ、と渡されたペットボトル。 本当は一口飲まれたことなんてどうでもよかった。間接キス、なんてアホみたいに恥ずかしくなっただけだ。 まさかそのお茶に、何か。 大体、何故あんな絶妙なタイミングで龍樹を助けに来ることが出来たのか。何故場所がわかったのか。 何故疑問に思わなかったのか、思えば不自然なことばかりだ。 水樹は血の気が引いていくのを感じた。 もし水無瀬が何か盛ったなら、効果が現れる時間帯を見計らったのだと説明がつく。 龍樹をけしかけて、龍樹の部屋に水樹がいるようにすれば、場所だって特定できる。龍樹は単純だし水無瀬の言うことを疑ったりしないから、簡単だっただろう。 考えれば考えるほど、疑わしい。 恐る恐る水無瀬を見上げると、透明度の高い青い瞳は、暗い影を落としていてその真意を見せてはくれなかった。 水樹は頭を振った。 (まさかね、誘発剤なんてそう簡単に手に入るものじゃないし、それに…) あんなに悲しそうに、龍樹に別れのキスを強請ったこの人が。 こんなに辛そうに、龍樹と同じ色艶の髪を愛でるこの人が。 龍樹との関係に亀裂を入れる以外なんの役を果たさない自分との番関係など、望むはずがない。 望まないのに、誘発剤なんて使う意味がない。 発情期はただの事故。 水無瀬が好きなのは龍樹。 自分は、水無瀬の番になれない龍樹の代わり。龍樹が痛い思いをしなくて済むための盾。 余計な事考えずに、今はただこの優しい腕に抱かれていよう。彼が誰を想っているかも考えず。 水樹が水無瀬の偽物の愛情を手に入れたのと同じように、水無瀬もまた、龍樹の偽物を手に入れた虚無感に苛まれているのだろうから。

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