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第76話
顔を上げた水無瀬は、そっと水樹から手を離す。ぽふっと水樹の頭にその手を置いた。
「お金もない上にDV予備軍。それが僕だよ。」
水樹は開きかけた口を閉じた。
お金くらい、と言いたかった。けれどそれは水無瀬には通じない。水樹はあまりに恵まれた生活に慣れ過ぎている。
DV予備軍なんて、そんな言い方と言ってあげたかった。
それも水無瀬には通じないだろう。
真っ当に愛されて育った水樹には、水無瀬の愛情への恐怖心が持つ闇の深さを測り知れない。
さらりと撫でられた髪。
優しいその手つきにうっとりと浸って、自然と閉じた瞼から一筋涙が流れ落ちて、それを親指で拭った水無瀬から、瞼にごく軽いキスをされた。
「僕だけがしんどいならまだしも…わからないじゃない?幸せになって欲しい君に僕がどんな愛情を向けるか。」
水無瀬は緩く首を振った。
垣間見えた顔に浮かぶ表情は、諦観。
水無瀬はきっと、誰かを好きになることそのものが恐怖に違いない。大切に愛でたいのに、手を上げてしまうかもしれないと。
こんな時まで、その体温が愛しい。
それは番だからなのか、それとも水樹が水無瀬を愛しているからなのか。
水無瀬は、どんな時でも笑う。
楽しい時も嬉しい時も、苦しいときも哀しいときも。
空になった皿と湯呑みを手に立ち上がった水無瀬はキッチンスペースで洗い物を始めた。水道から流れる水の音がやけに響く。水が耳の中を直接通っているようで、気持ち悪い。
水無瀬の洗い物はすぐに終わったはずなのに、耳鳴りは続いていた。
タオルで手を拭きながら、水無瀬はまた笑う。いつだって、水無瀬は笑う。その笑顔は、ただ口角が上がっているだけ。
「ごめんね、好きになったりして。余計に君を傷つけた。でもきっと、続ける方が君を傷つける。」
きっと、そう言った水無瀬の方が、傷ついていた。
「…だから、遠慮なく嫌ってくれていいんだよ。番だからって上手くやろうとしなくていい。死んで詫びて自由にしろというならそれも受け入れる。僕は君にそれだけのことをしたからね。」
そして水樹は言葉を失った。
信じていないのだと。
水樹の好きだという言葉を、水無瀬は信じていない。
信じられないのだ。
愛していると囁きながら暴力を振るわれ続けて、好意を表す言葉を信じられなくなってしまった。
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