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第78話

ギュッと握られたシャツが湿ってくる。嗚咽の中に混じるごめん、が、水樹に対してなのか母親に対してなのか。あるいは両方か。 それを水樹が知ることはなかった。 「幸せになんか、してあげられないよ?」 涙と呼吸が落ち着きを取り戻した頃、涙声で水無瀬は言った。いつも清廉なテノールが、少し掠れている。 水樹は水無瀬の淡い色の髪に指を差し込むと、初めてかもしれないその感触を堪能した。天然物のその髪は当然少しも傷んでおらず、滑らかだ。 「いつか君に手をあげるかもしれないし。」 水樹はそっと身体を離し、水無瀬の赤くなった目を覗き込んだ。泣きすぎて赤くなってしまっているのに、埋め込まれた青はやはり特別綺麗だ。 「水無瀬は、大丈夫だよ。」 それは確信。 水無瀬のことはわからないことばかりだけど、これは自信があった。 「手をあげるかも…って心配してるうちは大丈夫。だって水無瀬は、誰より叩かれる痛みを知ってるでしょ。」 大好きな人に叩かれる痛みを、この人は誰よりも知っている。 「…水樹、お願いがあるんだけど。」 再び水樹の胸に頭を預けた水無瀬が言った。 なんでも叶えてやりたい。自分にできることなら。 水樹は綺麗な髪を梳きながら続きを待った。躊躇しているのか、なかなかその願いを口にしない。やっと聞けたその願いは、極々小さな、聞き逃してしまいそうな声で。 「名前、呼んで。」 それは、水樹には容易い願い。 けれどきっと、水無瀬にはひどく辛い願い。母親から、愛しているの言葉とともに呪詛のように繰り返されたその名前。 水樹は、初めてその名前を紡いだ。 「…唯。」 背に回った手が、痛いくらいに水樹を抱きしめる。いや正直言って痛い。水無瀬の心の痛みだ。 「もう一度…」 「唯。」 「も、一回…」 「唯。」 「苦しくない?お母さんは、いつも、いつも僕の名前、呼ぶの、苦しそうでっ…」 「苦しくない。大丈夫だよ唯。」 苦しいわけがない。 水無瀬の腕の力がどんどん弱くなっていく。幼い頃から塗り固められた己の名への嫌悪感が、少しずつ溶けていくかのように。 「おか、さんを、苦しめるだけの、この名前が、嫌いっ…」 震える背中をそっとさすりながら、水樹は自然と出てきた言葉を口にした。 「俺は好きだよ。何より大事な番の名前。きっとこれからもどんどん好きになる。」 まるで小さな子供のように泣く水無瀬を、いつまでも抱きしめていた。

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