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第83話

「なんてね。」 「へ?」 まるで心の声が出てしまったかのように、なんてね、が出てきた。だけど、自分の声はこんなに綺麗じゃない。 間抜けな声とともに隣に立つ美声の持ち主を見上げると、水無瀬もまた驚いたように水樹を見下ろしていた。 「…ごめん、聞いてなかった。」 「もー!今すごい勇気出して言ったのに!」 「え、なになに?」 「やだよ、もう言わない。」 「えー!」 水無瀬に愛情表現として触れることはなかなか難しい。だけどそんなものはいつだっていい。ゆっくりでいい。 すっかり拗ねてしまった水無瀬のポケットに手を入れてその手を握ると、意外にも温かかった。その正体は、ポケットの中で握られたカイロ。 水無瀬はカイロを手放すと、水樹の手に指を絡めた。 温かい指先がまるで水無瀬の心境を表しているようで。水無瀬がそんな温かい気持ちになってくれるなら、これまでに受けた仕打ちなんて可愛いものだとさえ思えてしまう。 もうすぐ3月になり、春が来る。 水無瀬のものになったカシミヤの白いマフラーは、きっと高校生のうちは使えるだろう。次のマフラーはどんなものがいいかな。 随分と先の予定に想いを馳せ、絡んだ指に少しだけ力を込めた。 口元が緩んでしまったのは、きっと水無瀬にはバレていたけれど、水無瀬はなにも言わなかった。 「唯。」 彼が嫌う彼の名前を呼ぶ。 天使のような彼の残念な姿を知ってるのも、獣のような貪欲な姿を知っているのも、きっと自分だけ。 それは小さいことだけど、大きな優越感。 彼の名前を呼ぶことを許されたのも、きっと自分だけ。 それは大きなことで、小さな誇りだ。 「大好き。」 きょとんとした顔が少し間抜けで、しかしそれさえも見とれてしまいそうなほど美しく。 水樹が笑いを堪えきれずにいると、バツが悪そうにそっぽを向かれてしまった。 「…外では呼ばないでって言ったのに。」 「いいじゃん、ていうかなんでダメなの?」 「また泣いちゃったら困るじゃない。当分水無瀬って呼んでてよ。」 「んーまぁそっちの方が慣れてるけどさ。たまにはいいじゃん。」 「僕が困るの。」 水無瀬の真っ白い頬が少し赤くなっていたのは、寒さのせいと思うことにしてやった。 あまり見られたくないようで、マフラーに顔を埋めてしまっていたから。 春はすぐそこ。 水樹の心には一足早く春が訪れていた。水無瀬への恋心が咲かせた大輪の花。その種子が、すぐ隣で芽吹こうとしている。 それは水無瀬と二人で育てる恋の花。

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