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第87話

サラサラとシャーペンが走る音。 カチカチと時計の秒針が鳴る音。 時折、ヴィーンと冷蔵庫が唸る音。 それら以外には、何の音もしない。 この静かな空間が、ひどく居心地が悪い。水樹は耐え切れずに口を開いた、 「あの…ごめん、手、平気?」 ようやく顔を上げた水無瀬はちょっと口の端を持ち上げて、平気だよとだけ言い、またノートに視線を落とした。 水無瀬の笑顔は、わからない。 痛い時も苦しい時も水無瀬は微笑むから、ちっともその真意がわからない。 以前に比べたら少しは表情の違いを読めるようになったけど、それはまだまだ水無瀬を理解するには足りないレベルの話だ。 水無瀬の様子を伺うと、金色の睫毛が白いノートに影を落としていて、その表情を見せてはくれなかった。 水無瀬は図式を見ながら指を唇に当てて何かを考え込んでいる。相変わらず艶っぽい癖だ。 あの唇が、自分の唇と合わさると、幸福感に満たされる。 中に潜んだ舌に全身を蹂躙されるのは、紛れもない悦楽。隠された牙でうなじを噛まれるその行為は、水樹にとって何にも代え難い歓び。 ふわりと立ち上る、色香。 「っ、あ、ごめん、薬…」 もう一度特効薬をと立ち上がった水樹の身体は、一瞬の浮遊感の後にすぐ隣のベッドに沈んだ。ギシッとスプリングが悲鳴をあげるのをどこか遠くに聞きながら、呆然と水無瀬を見上げる。 その眼差しに、まるで発火したようだった熱が一瞬にして冷める。この冷たい青い瞳は、覚えがあった。 水無瀬と番になった、あの時。 「や、嫌だ水無瀬、怖い…」 そんな目で見下ろさないで。 震えるように首を振って拒絶の意を示すと、水無瀬はその美しい顔を嘲笑の形に歪めた。 水樹はそこから一歩も動けずに、水無瀬の言葉を聞く。 「…そんなに僕に抱かれるのは嫌?」 という、信じられない言葉を。 「なにを…」 「でも残念だね。君の番は…今は、僕なんだよ。」 訳も分からないまま服を剥ぎ取られて、抵抗は意味を成さず言葉は届かず、やがて声は喘ぎに変わった。 発情期は厄介だ。 ちゃんと話がしたいのに、身体は悦んで荒い愛撫を受け入れる。雑な行為を水無瀬も望んでいないことは、その表情から明らかだ。 水樹の心も、そして水無瀬の心も踏み躙るフェロモンが落ち着き、水樹が正気を取り戻したときには、既に水無瀬の姿はそこになかった。

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