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第88話
「学校…行ったんだろうな…」
水樹の小さな呟きを拾うものはいない。一目で時刻を教えてくれるデジタル時計は、とうに学校が始まっている時間だった。
昨夜何時まで耽っていたのか、記憶にない。身体は簡単にだが清められている。きっと水無瀬が拭いてくれたんだろう。
そんな時間まで起きていて学校もちゃんと行かなくてはならなくて、しかも居眠りなんて出来ないだろうに。
あの時、何が水無瀬の逆鱗に触れたのか全くわからない。
確実に水無瀬は何かに怒っていた。もちろん水樹の発情フェロモンに当てられたのもあるだろうが、なにもなければあんなこと言わないだろう。
君の今の番は僕だ、なんて。
「寝言でも言ってたのかな、俺。」
叔父の夢を見ていた。
大好きだった、叔父の夢。
あの年頃の大好きが恋愛感情なのかそれとも親愛によるものなのか、それは水樹本人にもわからない。
それこそ今叔父が生きて目の前にいたらわかるだろうが。
不毛な仮定に水樹はバカバカしくなって頭を振った。
昨夜、あんな形でも水無瀬の精をたっぷり受けたおかげかとても調子がいい。今のうちに何か食べようと冷蔵庫を開けると、いつものゼリーの山の中に、一つだけ小さな箱を見つけた。
寮を出てすぐ近くにある洋菓子店の箱だ。テスト前に勉強を教えてもらうお礼に、水無瀬と龍樹のためにプリンを買いに行くあの店。
開けてみると、桃のゼリーとプリンが一つずつ。そしてメッセージカードが入っていた。
Happy Birthday!
センス良くプリントされたそれは店にある既存のものだろう。水無瀬が書いたわけでも、一言書き加えているわけでもない。ただ店の主人が好意で入れてくれただけのメッセージカードだ。
そうだ、昨日は誕生日だった。最悪の目覚めに特効薬の副作用、加えて水無瀬ともいざこざしてしまってすっかり忘れていた。
『ゼリー買ってきてあるから、食べられそうな時に食べようね。』
あれは、一緒に食べようという意味だったのだ。食べられる時に食べろではなく、誕生日のお祝いに。
水樹は箱をそっと戻し、その場にしゃがみこんだ。喉を迫り上がってくる熱いものを飲み込むと、焼けるような痛みに襲われた。何度も何度も飲み込むとなんとかやり過ごせたけれど、喉の痛みは消えなかった。
覚えていてくれた。
わざわざ学校が終わってから外部まで出て、ケーキが苦手な水樹のためにゼリーまで用意して。
いざ訪れてみたら予定より早い発情期で、さぞ驚いただろう。
もう、戻って来ないかもしれない。あんなに怒らせて、本意でない行為までさせてしまって。
「戻ってきてよ…」
一緒に食べようよ。
願いが音になることはなく、嫌味のように太陽はまだ高い位置で燦然と輝いていた。
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