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第89話

予想に反し、日が暮れてカーテンを閉め少しした頃に水無瀬は再び姿を現した。 「身体…平気?」 水無瀬の方が苦しそうにそう言うから、水樹も苦しくなってしまう。そんな顔をしないでほしい。あの屈託のない笑顔を見せてほしい。願わくばずっと側で。 布団の中から半分だけ顔を出した体勢ではその想いも通じるはずがなく、水無瀬はふいと顔を背けて昨日と同じ場所に座り、カバンからノートと教科書を取り出した。 明日からはテストだ。いよいよ来てくれないかもしれない。 水樹はズキンと傷んだ胸を抑え、もぞもぞと布団から這い出た。水無瀬は背を向けている。ブレザーを脱ぎワイシャツ一枚のその背中はまるで拒絶されているようで悲しくなり、随分前に打った特効薬の副作用がぶり返したように頭痛がした。 水無瀬はすぐに勉強を始めるのかと思えば、立ち上がってキッチンへ向かう。飲み物だろうか。 ふらつく脚に力を入れて追いかけて、勇気を振り絞ってその背中にそっと抱き着いた。 「昨日…俺、何かした?」 温かい背中に勇気付けられてやっとの思いで吐き出した疑問は、くぐもっ聞き取りにくかっただろう。 水無瀬は少しだけ間を置いて、水樹の腕を解いて振り返る。繊細な美貌が少し影を落として、それが少し泣きそうに見えた。 「昨日は…ごめん、僕が悪かった。君は何も悪くないよ。」 諦めにも似た表情を浮かべながら微笑んだ水無瀬は、それだけ言って優しく水樹の身体を離した。 湧いた湯をマグカップに注ぐと、珈琲の香りが立つ。芳しい香りにきゅるりと胃が主張して、水樹は恥ずかしくなってそこを抑えた。 「お腹空いてるの?」 くすりと小さく笑うその笑顔が、どこか安心したような揶揄いを含んだような、とにかく普段の水無瀬の明るい顔だったから、それはそれでこの胃もいい仕事をしてくれた。 水樹はこれ幸いとばかりに、冷蔵庫からあの箱を取り出す。水無瀬が少し驚きを露わにして、そして破顔した。 「これ…」 「うん、昨日誕生日だったでしょ。ごめんね、お祝いしてあげたかったんだけど。」 冷え切った胸の内がじわりと温まる。それはまるでゆたんぽのように優しい温もりで、徐々に徐々に歓喜となって全身に行き渡った。 「食べられそうなら、食べようか。」 一日遅れちゃったけど、おめでとう。 水無瀬の微笑みはやはり最上のご褒美だ。 水無瀬はふらふらしている水樹をテーブルに待たせて、スプーンも水樹の珈琲も用意してくれた。 ロウソクもなにもない、簡素な誕生日。けれどどんな豪華なプレゼントよりも、どんな美味しいご馳走よりも嬉しい誕生日。 そして、なにより嬉しかったのは。 「…俺だけを祝ってくれたの、初めてだね。」 龍樹とまとめて一緒におめでとうじゃないこと。水無瀬が今、水樹にだけおめでとうと言ってくれたことだった。

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