90 / 226

第90話

小さなプリンもゼリーもすぐになくなってしまったが、2人の間に流れる空気は嘘のように穏やかでゆったりとしていた。 重だるい身体だけが、今が発情期であることを教えてくれる。発情期にこんなにも安らいでいるのは初めてかもしれなかった。 番がいるって、いいなぁ。 少し冷めたコーヒーを啜りながら、水樹は時計を見やった。もうあと1時間もしたら、特効薬の効果も切れてまた熱に浮かされるだろう。 もう邪魔したくないし、また特効薬を使おうと思っていた。水無瀬がいてくれるだけで随分楽になるから、特効薬を使うことにもあまり抵抗がなくなっている。 空になったゼリーの容器をじっと見つめながら束の間の休息に安堵していると、柔らかなテノールが耳をくすぐった。 「テスト中は、もっと早く来られるから。」 え? 音にならなかった言葉は、水樹の瞳が伝えてくれた。 「このテスト大した問題出ないから大丈夫。来月の中間はちょっと…毎回英語がえげつなくてね…」 「龍樹も、英語死ねるって言ってた。」 「あんなのどこの大学の入試問題?っていう…僕こんな見た目だけど、テストに必要な英語しかわかんないし。」 街に出ると外国人に英語で道を聞かれるのが嫌で仕方ない、とボヤいた水無瀬は、溜息をついてコーヒーを飲み干した。 その姿が、感情を押し込めて優美な微笑みをたたえているだけの皆がよく知る天使様ではなく、水無瀬 唯という1人の極々普通の少年のようで、水樹は知らず笑みを浮かべていた。 「あ、笑ったな。」 「笑ってないよ。」 「笑ってるじゃない。」 「笑ってないって。」 鸚鵡返しに毛が生えた程度の応酬が、バカみたいに楽しい。 くつくつと笑いを堪える水樹を少しだけ眺めた水無瀬は、ぽふんと頭を撫でてきた。暖かい部屋で温かい飲み物を飲んでいたせいか、珍しく水無瀬の指先に温もりがあった。 「よかった。また笑ってくれて。」 その顔は、心からの安堵を表していた。 「昨日…あんなことしたから、もう笑ってくれないかと思った。」 ふふっと笑った水無瀬が、あまりに眩しくて直視できない。水樹は耳まで真っ赤になるのを感じて、いたたまれなくなって俯くしかなかった。 「なに、それ…最初の方が酷かったよ。」 「最初?ああ番にしたときか。それもそうだね。」 「嫌われたかったくせに。その後も色々ひどかった。」 「うん、でも一回甘い蜜吸っちゃったもん。もう怖くて無理。」 「勝手過ぎる…」 「ごめんね?」 力なく睨み付けると、水無瀬はまた綺麗に笑った。どんな花も敵わないだろうその微笑みはいっそ、凶悪。 「今日は、ちゃんと優しくするよ。多分。」 「…多分?」 「ヒート中は僕も訳わかんなくなるんだって。」 この清廉で美しい人が、性欲に支配されるなんて俄かに信じがたいけれど。そこまで狂わせることが出来ることもまた、Ωの本能を愉悦に浸らせるのだ。

ともだちにシェアしよう!