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第94話

甘く、それでいてどこか刺激のある唇。熱く滑る舌が歯列をなぞれば、緊張に固く閉ざされた唇が容易く綻んだ。それが侵入してくると、刺激は一層強くなる。 痩せているくせに力強い腕は、水樹の力の抜けた身体をしっかりと捕まえて離さない。 離して、欲しくない。 「…んっ…」 痛いほどの抱擁とは裏腹に、少し臆病なくらいの口腔内優しい愛撫水樹はすっかり酔い痴れて、全身の力が抜けた。 身体が軽い。 ふわふわと夢の中を漂っているようだ。 やっとの思いであげた腕を背に回す。片方の腕は、そっと後頭部に差し入れた。 反射的にピクリと跳ねた水無瀬を宥めるように優しく優しく形のいい頭を撫でる。窓の向こうから入る初夏のきつい日差しにキラキラ輝く髪が幻想的なまでに美しい。 抱き締める腕の強さが、口内を撫でる舌の優しさが、水無瀬の愛情の深さを教えてくれる。 永遠に続くのではないかと思った口づけ。甘さの名残だけを微かに残してゆっくりと離れていった水無瀬の唇を、名残惜しく見てしまう。 優しく、それこそ天使の如く微笑んだ水無瀬はもう一度軽い口付けを落とし、今度はふわりと優しく抱きしめてくれた。 「水樹、あったかいね。」 「暑くない?5月だよ。」 「ムードないなぁ、こういうときの人肌は別なんだよ。」 くすくすと控えめに笑いながら耳に触れるか触れないかのキスをしてくるから、声がくすぐったいのか触れた唇がくすぐったいのかわからない。 緩い愛撫はやがてエスカレートして、耳殻を食まれると水樹の身体が震えた。その様子を満足気に眺めた水無瀬はまた優しく笑んで、冷たい手を水樹のシャツの中に忍ばせる。 冷たい指先が素肌を這う感触にゾクゾクと震えて、ああこのまま抱かれるのかなとギュッと目を閉じたその時。 水樹の携帯が鳴った。 「…電話、だね。」 「うん…」 動きを止めないバイブレーション。ほんの一瞬止まって、また震え出す。また長く震え出す。 何度かそれを繰り返して、ついに水無瀬が堪えきれずに吹き出した。 「…ふふ、出なよ、急用っぽいし。」 目に涙を溜めながら笑う水無瀬の顔はそれはもう眼福だけれど、水樹の怒りと中途半端に高ぶった身体はおさまらない。 これでもかと八つ当たりしてやると相手も確認せず通話に出た。 『あ、やっと出た!やべぇよどうしよう俺、実紗…』 「藤田ぁ…お前ほんと覚えてろよ…」 『ひっ…!?』 哀れな声でごめんなさいと呟いた藤田の声に少しスッとしながら、藤田の相談を聞いてやる。彼女と喧嘩したらしかった。激しくどうでもいい。 少し冷静になると、心臓が破裂しそうなほどに鳴り始めた。 (びっくり、した。) 発情期以外で、水無瀬に抱かれたことはない。 発情期は頭がバカになっているから恥も何もないけれど、今抱かれたらそうじゃない。 いつかはきっと、発情期ではない時にそういうことをする場面もあるだろう。 (正気でいられる気がしない…) あんな風に触られて、キスされて。 自分がどんな風に乱れてしまうのか想像もつかない。 すっかり普段通りの水無瀬に赤くなっていく顔を見られないために、水樹はキッチンスペースに逃げ込むのだった。

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