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第98話
冷えた麦茶をお盆に乗せて部屋に戻ると、やはり水無瀬は寝ていた。
目を閉じて静かに寝息を立てる水無瀬の姿は、本当に生きているのかと思う程に完成された美。ギリシアの古代の巨匠が生み出した彫刻のようだとさえ思う。
陶芸家なんて職の祖父を持つくせに芸術のゲの字も知らない水樹の少ない語彙では、水無瀬の美貌を賛称する言葉が足りない。それがひどくもどかしい。
(キスしたい…けど、起きるよな。)
眠っているときに近寄られるのが恐怖でしかない水無瀬は、きっと怯えた顔で飛び起きるだろう。それはあまりにかわいそうだ。
穏やかな寝顔をじっと見つめていると、金色の長い睫毛がひくりと揺れて、玉のような青い瞳がゆっくりと姿を現した。
ほんの数秒視線がかち合い、水無瀬はふわりと微笑んだ。
「…そんなに見て、どうしたの?」
寝起き特有の掠れた声が、いつもの清廉なテノールにほんの少しの色気というスパイスを効かせている。
なんでもない、と語気を強めて言ったはいいが、赤くなってしまった顔はどうしようもない。
ゆったりと体を起こした水無瀬に、手にした浴衣を押し付けて誤魔化した。
「なにこれ?」
「浴衣。龍樹の借りたから、丈も大丈夫なはず。」
「別に私服でいいのに。浴衣なんて着たことないよ。」
「じゃあ着付けてあげるから浴衣で行こう。俺も着て行くし。」
男の浴衣なんて雰囲気でいいのだ。お祭りなんだから、雰囲気を楽しまなきゃ損だ。
水樹は箪笥を開けて自分の浴衣を物色する。水無瀬がグレーなら、淡い色でもいいかもしれない。とは言っても男物の浴衣なのでそんなに色柄が選べるわけでもないのだけど。
ふと、龍樹の顔が浮かぶ。
どんな顔をして、水無瀬に浴衣を選んだのか。
「…龍樹は、来ないかも。」
気にしてない風を装ったけれど、出て来た声は寂しげに揺れていた。
また、汚い自分が顔を出す。
3人で楽しくお祭りに行きたかった、と見せかけて、本当は2人きりでお祭りも花火も観れることに喜んでいる。
龍樹が来ないことが寂しいんじゃない。こんな風に考えてしまう自分が嫌なのだ。
「…明日、楽しみだね!」
振り返って目一杯の笑顔を作ったけれど、うまく笑えていたかはわからない。きっと笑えていなかった。
水無瀬の顔が一瞬歪んだから。
翌日、やはり龍樹は来なかった。
水樹に浴衣を着付けてもらう水無瀬に、似合うじゃんと一声かけて何処かへと出かけてしまったのだった。
その背中を、複雑な想いで眺めるしかできなかった。
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