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第106話

発情期のフェロモンで他者を誘惑せずに済むのなら、特効薬など使わずにひたすら一人で行為に耽るのも一つの手。 水樹は最初の数日間は特効薬を使わずに過ごした。出るものがなくなり、触りすぎて下半身が前も後ろも痛くなった頃特効薬に切り替えたが、すると今度はやはり高熱と激しい嘔吐に苛まれる。 それも家族がつきっきりで看病してくれて、特に龍樹は片時も離れずに側にいてくれた。 水無瀬とは違う温かい手が背を撫でると、嬉しいはずなのに拒絶反応が出てその手を叩き落としてしまったりもした。それでも龍樹は側にいてくれた。大丈夫だからと微笑んでくれた。 母はゼリーを買って来てくれた。祖母は懐かしいおにぎりも持って来てくれた。 父も祖父も、仕事の合間に顔を出しては声をかけてくれた。 家族にこんなにも囲まれて世話をされたのは、初めてだった。 それでもやはり求めるのはただ一人。唯一無二の水樹の番。 「水無瀬…っ!うぇ…」 嘔吐からくる生理的な涙か、それとも寂寞の涙かわからない。泣きながら水無瀬の名を呼ぶ水樹に、龍樹は困ったような顔をするのだった。 疲れ果てて漸く眠りについた水樹は、真っ暗な世界でふわふわと足元の浮遊感を楽しんでいた。 こんな暗闇、普通なら恐ろしさを感じそうなのに不思議とそんなことはなく、温かさすら感じるこの世界にむしろ心は穏やかに凪いでいた。 何よりも心を落ち着かせているのは、この世界の匂い。甘く、優しく、水樹の脳を侵食していくこの匂いだ。 水樹は、この匂いを知っていた。 いや、覚えていた。 「水樹。」 懐かしいその声にゆっくりと振り返る。そこにいたのは記憶と寸分の違いもない叔父の誠司の姿だった。 「でかくなったな。」 「うん。叔父さんは意外と小さかった。」 「なんだとー?生意気なのは変わんねーな。これでも175だっつの。」 ケラケラと楽しそうに笑うのも同じだ。誠司は、釣られて笑ってしまいそうになるくらい楽しそうに笑う。水樹は小さく微笑むと椅子も何もないその空間に座り込む。 一頻り笑った誠司が、ゴロンと隣に寝転んだ。 すーっと叔父のフェロモンが自然に入り込んでくる。 夢の中とはいえ、龍樹の手すら叩き落す発情期中に、そのフェロモンは余りに自然に水樹の身体を包み込んで行った。 すると、さらりと誠司の手が水樹の髪を梳いた。夢だというのにその手は温かい。昔はもっと大きく感じたその手。 (…違う…) 水無瀬とは、似ても似つかない温かく逞しい手だ。

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